前回は「「全てを超越した」超巨大戦艦大和〜帝国海軍の「アウトレンジ」戦法・連合艦隊の「先頭切る」はずだった大和の運命〜」の話でした。
虚空を睨み続ける大村益次郎:神社軸線上の強い象徴性

皇居のすぐ近くにある靖国神社。

桜の時期には、皇居の千鳥ヶ淵とともに東京有数の名所であり、非常に賑わいます。

この靖国神社の中央付近には、大村益次郎の銅像があります。
日本には、戦国期の武将や明治維新の志士たちなどの銅像が多数あります。

鹿児島には西郷隆盛や大久保利通などの銅像があり、威風堂々とした迫力があります。

熊本城付近にある加藤清正像もまた、ドンと構えた武将らしさが溢れています。

これらの銅像と比較して、この大村銅像は、他の銅像とは少し異なる雰囲気があります。
威風堂々としているのは当然のことですが、虚空を睨んでいるかの表情をしている大村銅像。
他の銅像と比較して、靖国神社の強い軸線上にある大村銅像は、その象徴性が極めて強いです。
日本にある様々な銅像は、街や何らかの施設の一角にあることが多いです。
それに対して、細長い形状の靖国神社の軸線上にあり、ちょうど中心付近にある大村銅像。

靖国神社という、日本における極めて特殊な神社において、大村は周囲を睥睨し続けています。
上の写真のように、大鳥居越しの軸線上に配置された大村銅像は、靖国の象徴でもあります。
睨んだ先と上野の西郷隆盛像:彰義隊との死闘

そして、この大村益次郎の銅像が睨む先は、上野公園の西郷隆盛像である説があります。
「説」とここで述べましたが、「俗説」に近い印象もあります。
ただ、確かに靖国神社と上野公園の位置関係と、両者の銅像の位置を考えると適合しています。

薩長土肥を中核とする諸藩の連合軍が「官軍」となって、徳川幕府を追い詰めた幕末維新。
中核の軍勢は薩長でしたが、「長年戦い続けていた」長州軍は劣勢でした。
対して、討幕直前まで「佐幕」であり、勢力を温存し続けた薩摩。
そもそも、異常に強い武士を中核としていた薩摩軍の強さは当時軍を抜いていました。
独特の示現流に加え、鉄砲装備率が高い薩摩は、戦国期からずっと最強であり続けました。

さらに薩英戦争後には、魔術的な外交力によって大英帝国と折衝を続けた薩摩。
薩摩には、世界最新鋭に近い武器が多数流れていました。
示現流の白兵戦における強さに加えて、もともと鉄砲軍であり世界最新鋭の武器を身につけた薩摩。
当時の薩摩軍は、日本一はもちろんのこと、世界一最強軍団であったと表現して良いでしょう。

討幕軍は、私が
率いるので・・・



私の指示に従って
下さい。



・・・・・
分かり申した・・・
討幕戦の途中から、薩長軍の采配を握った長州の大村。
名前 | 生年 | 所属 |
大村 益次郎 | 1825 | 長州 |
西郷 隆盛 | 1827 | 薩摩 |
大久保 利通 | 1830 | 薩摩 |
木戸 孝允 | 1833 | 長州 |
坂本 龍馬 | 1835 | 土佐 |
中岡 慎太郎 | 1838 | 土佐 |
高杉 晋作 | 1839 | 長州 |
久坂 玄瑞 | 1840 | 長州 |
実は、大村は、多数の志士たちの中で、年齢的に最長老格でした。
この「大村の年齢が西郷の年齢の上だった」事実は重要です。
現代も当時も、社会において、実力主義であっても年齢は多少なりとも影響します。
もし、大村が「年齢が若い、若造であった」場合、西郷は大村に指揮を委ねてかどうか。



大村は極めて優秀で、
西洋の軍事学をマスターしている!



ここは大村が指揮するのが
最善だろう!



木戸どんの
申す通りごわす・・・
薩摩軍を牽引し続けてきた西郷としては、「木戸の睨み」もあり、大村に席を譲りました。
終盤の彰義隊との戦闘の際、



最強の薩摩には、
黒門をお任せしたい。
超激戦地が予想された黒門に薩摩軍布陣を指示した大村。
白兵戦が予想され、「最強クラスの彰義隊」に対して「世界最強の薩摩軍」は理にかなっていました。



ここを薩摩軍が
戦うとなると・・・



多数の死者が
出申すが・・・



薩摩軍を皆殺しに
するつもりごわすか・・・
ここで、大村は、「戦術の合理性」を説明すべきでした。
ところが、志士の中で「傲岸度」ならばダントツNo.1であった大村は、



さよう・・・



・・・・・
このように、「維新の巨星」西郷の言い分を「一蹴した」説があります。
事実は不明ですが、当時の「薩長の関係」を考える上では、象徴的な話です。
第二次世界大戦の印象が強い靖国神社。
このような大村と西郷の関係を象徴するような銅像もまた、大変興味深いです。
次回は上記リンクです。