山本五十六に流れる「反逆者の系譜」〜超正統派の謎の思惑・名家山本家を継いだ高野五十六の結婚・会津藩士娘との見合い結婚・戊辰戦争を最後まで戦った長岡と会津〜|山本五十六6・能力・エピソード

前回は「帝国海軍最強の知米派・山本五十六〜「生の戦争」と米国駐在・日本海海戦での大勝利と重傷・生涯失った左手人差指と中指〜」の話でした。

山本五十六 連合艦隊司令長官(連合艦隊司令長官 別冊歴史読本 新人物往来社)
目次

名家・山本家を継いだ高野五十六の結婚:会津藩士娘との見合い結婚

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戦艦三笠に座乗する東郷平八郎連合艦隊司令長官(Wikipedia)

日露戦争に海軍兵学校卒業生の最年少クラスの一人として参加した山本(高野)五十六。

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高野(山本)五十六少尉(Wikipedia)

山本五十六の出身は高野家であり、優秀で品行方正な高野五十六は、若い頃から評判が高い人物でした。

もともとは、高野五十六と名乗っていた山本五十六が生まれたのは1884年でした。

1884年は、1871年実施の廃藩置県後、13年が経過していました。

とは言っても、まだまだ「藩の香り」が残っていた時代でした。

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旧越後長岡牧野藩 第十五代当主・貴族院議員 牧野忠篤(WIkipedia)

「長岡の星」で、帝国海軍に雷名を轟かせていた高野五十六に対して、貴族院議員だった牧野忠篤は、

牧野忠篤

高野五十六は
大した人物と評判であり・・・

牧野忠篤

私も実際に会ってみたが、
こんな大人物は、そうそういない・・・

牧野忠篤

我が長岡藩は
なくなってしまったが・・・

牧野忠篤

長岡藩の名家は
後の歴史にも残したい・・・

このように考えた「最後の長岡藩主」牧野忠篤は、高野五十六に名家・山本家を継がせました。

高野五十六

承知しました・・・
山本家を継いで、山本五十六となります!

そして、1916年、高野五十六が32歳の時に、山本家を継いで「山本」五十六となりました。

この頃は、一回目の米国駐在後に海軍大学校を卒業した山本五十六。

経験を積み重ね、さらに大いなる飛躍をする時期でした。

そして、山本五十六にとって、大きな転機が更に起こりました。

山本五十六

32歳になったし、
そろそろ結婚かな・・・

当時、男女共に、結婚時期が現代よりも遥かに早かったなか、「少し遅め」だった山本。

見合いした結果、会津藩士三橋康守の娘・三橋礼子と結婚しました。

戊辰戦争を最後まで戦った長岡と会津

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長岡藩家老 河井継之助(Wikipedia)

ここで、大事なことは、長岡藩はもともと「反体制」で有名であったことでした。

幕末、奥羽列藩同盟の一角として、頑強に抵抗したのが長岡藩7万4000石でした。

河井継之助

新官軍、
だと・・・

河井継之助

お前たちは、
薩長軍だろうが!

河井継之助

そして、お前たちは
単なる反乱軍なのだ!

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明治維新の薩長大幹部:左上から時計回りに木戸孝允、西郷隆盛、大久保利通、大村益次郎(国立国会図書館)

幕末維新期に、薩長を中心とする軍が新官軍となって大挙して、東北地方に乗り込んできました。

その薩長軍=新官軍と最後の最後まで、頑強に抵抗したのが河井継之助率いる長岡藩でした。

河井継之助

お前たちには
絶対に降伏せん!

河井継之助

この長岡藩は、
小さな藩かも知れぬが・・・

河井継之助

この河井とガトリング砲が
ある限り、戦うのだ!

一時は、落城させられた長岡城を「奪い返す」という荒技まで、やってのけた河井。

河井継之助

むう・・・
ここまでか・・・

ところが、戦争中に河井が戦死してしまい、長岡藩は降伏に至りました。

山本五十六

尊敬する
河井先生のようになるのだ!

そして、山本が若かった頃は、「反逆者」扱いだった河井継之助を終生尊敬し続けた山本。

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石原莞爾 参謀本部第一部長(Wikipedia)
石原莞爾

河井先生は
私も敬愛している・・・

山本より5年後の1889年に生まれ、「陸軍切っての大天才」と称された石原莞爾。

石原もまた、河井を敬愛していた、と言われています。

山本五十六と石原莞爾の不思議な共通点ですが、二人は終生対面することなく終わりました。

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会津藩主 松平容保(Wikipedia)
松平容保

この会津藩は、
最後まで薩長と戦う!

そして、奥羽列藩同盟のボス格だった会津藩主・松平容保もまた、最後まで抵抗し続けました。

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会津戦争直後の会津城(Wikipedia)

そして、会津藩もまた薩長軍によって総攻撃を受けて、降伏に至りました。

山本五十六となった高野五十六が結婚したのは、1917年。

山本五十六が33歳になる年でした。

この頃は、会津戦争が勃発した1868年から49年経過していました。

ところが、まだまだ会津と薩長のわだかまりは残存していました。

山本五十六に流れる「反逆者の系譜」:超正統派の謎の思惑

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会津の山(新歴史紀行)

美しい山々が並ぶ風光明媚は地・会津。

会津では、現代でも「山口、または鹿児島は禁句」という人もいるほどです。

第二次世界大戦敗戦後に、根本的に国家像が変わってしまった日本。

国名も、大日本帝国から日本に変わりました。

戦前と戦後では一般国民の認識は全く違い、山本の頃は、まだまだ「明治の香り」が残存していました。

それにも関わらず、紹介された見合いとはいえ、「会津藩士の娘」と結婚した山本。

山本が普通の神経であれば、

山本五十六(架空)

相手の方は
素敵な方だけど・・・

山本五十六(架空)

会津藩、
ですか・・・

山本五十六(架空)

私が長岡で、
妻が会津だと・・・

山本五十六(架空)

「反体制派」と
誤解されるかも知れない・・・

このように、「誤解を避ける」ために縁談を断ったかも知れません。

ところが、山本はそんな軟弱な人物ではなく、頑強な意志を持っていました。

山本五十六

会津藩士の娘、ならば、
まさに我が妻に相応しい!

こうして、会津の血が流れている三橋礼子と結婚した山本。

本来「超正統派」であるはずの山本には、「反逆者の系譜」が流れていました。

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