前回は「中岡慎太郎「天下を興さんものは必ず薩長両藩」〜微動し始めた薩長の和・坂本龍馬と中岡慎太郎「薩長の感情を融和」・「あり得なかった」薩長同盟〜」の話でした。
中岡「洛西の一奇才・高杉晋作!」:高杉「役人になるのは御免!」

幕末維新の志士たちの中では、かなり若手だった田中光顕は、昭和初期に回想録を著しました。

その名も「維新風雲回顧録」であり、実に面白い書籍です。
| 名前 | 生年 | 所属 |
| 大村 益次郎 | 1825 | 長州 |
| 西郷 隆盛 | 1827 | 薩摩 |
| 武市 瑞山 | 1829 | 土佐 |
| 大久保 利通 | 1830 | 薩摩 |
| 木戸 孝允 | 1833 | 長州 |
| 坂本 龍馬 | 1835 | 土佐 |
| 中岡 慎太郎 | 1838 | 土佐 |
| 山縣 有朋 | 1838 | 長州 |
| 高杉 晋作 | 1839 | 長州 |
| 久坂 玄瑞 | 1840 | 長州 |
| 伊藤 博文 | 1841 | 長州 |
| 田中 光顕 | 1843 | 土佐 |
志士の中で若手、というより下っぱだった伊藤俊輔(博文)よりも更に二歳年下だった田中。
中岡慎太郎自今以後、天下を興さんものは、
必ず薩長両藩なるべし、



吾思うに、天下近日の中に、
二藩の命に従うこと、



鏡にかけて見るが
如し。
土佐藩を脱藩して、長州藩を頼っていた中岡慎太郎は、「時勢論」において、このように名言しました。
田中光顕は「予言」と書いていますが、「予言」というよりも「決意書」だった中岡「時勢論」。



この時、長州で、私が最も世話になったのは
高杉晋作である。



中岡は、



兵に臨んで惑わず、機を見て動き、
奇を以って人に勝つものは高杉東行、



是亦
洛西の一奇才!



と称賛しているが、彼は
長州に於ける人物のみならず、天下の人物である。



最初、私が、高杉に会うたのは、
文久三年春、国元から京都に出た時であった。



高杉は、当時、髪を剃って、
クリクリ坊主になって、



法衣のようなものをまとい、
短剣を一本指していると言うような風体。



それには
訳がある。



長藩では、彼を国元へ帰して、
政務座に抜擢しようとした。



ところが、
高杉は、



役人になるのは
御免だ。



と
言い張った。
確かに、高杉晋作に「最も似合わない職業」は、役人でした。
高杉晋作「西へ行く人を慕うて東行く」:田中「今も眼底にありありと」





高杉よ、
そこをなんとか・・・



私には
役人など、とても・・・



藩の家老の周布政之助が
しきりに勧めたが、なんとしても聞き入れない。



拙者は、是非とも、勤王の師を
起こして、幕府を倒さずにはおかぬ。



役人になることなどは、
思いもよらぬ。



と言って、今、急に、
そうは行くまい。



段々時勢が進めば、
足下の望み通りの時機が参ろう。



まず、これから
十年は待つことだな。



周布が
そう言った。



然らば、拙者に十年の
お暇を願いたい。



・・・・・



さすれば、外にあって、
毛利家のために働きます。



それほど、足下が
熱心なら強ってとも参るまい。



十年の御暇は、
何とかして、取り計うて進ぜる。
高杉が突然要求した、有名な「十年の御暇」。
何とも突飛な話でしたが、家老であり真面目な性格だった周布政之助。
周布は、「十年の御暇」を請け負いました。



周布が中に入ったので、
君候からも御許が出た。
なんと、高杉自身が「到底難しい」と考えていたはずの「十年の御暇」。
それが、毛利家の君主が「認める」ことになりました。



そこで、彼は、すぐに
藩籍を脱して坊主となったのである。



西へ行く人を
慕うて東行く。



我心をば
神や知るらん。



これは此時の
述懐だ。



西へ行く人というのは
西行法師をさす。



西行法師が隠遁したのを
したって、反対の東へゆくという心持ちは、



神より外に知るものはない、
と言う諷意だ。



私と初対面の時は、
正にこういう際であって、



何でも場所は東山にある料亭で、
高杉は、首に頭陀袋をかけていた。



芸妓が寄って集って、
物珍しそうに、この新発意をからかい始めた。
突然「十年の御暇」を頂戴して、「東行」と名乗り、「首に頭陀袋」となった高杉晋作。



すると、高杉は
坊主頭を叩いて、謡い出したもんだ。



坊主頭を叩いてみれば、
安い西瓜の音がする。



満座、笑い崩れて
しまった。



その剽逸な態度というものは、
今も尚、眼底にありありと残っている。
「あまりに突拍子もない」を超えて、誰もが理解不能だった高杉晋作。
田中光顕は、その高杉の姿を「今も尚、眼底にありありと残っている」と評しました。
そして、時代が高杉を求めることになります。
