前回は「討幕軍ダントツの智勇兼備の将軍だった板垣退助〜名門乾家に生誕・武田家超重臣「武士中の武士」板垣信方の末裔の血筋〜」の話でした。

土佐藩四天王の中核的存在だった乾退助:土佐藩における上士と下士

後世の視点から見て、幕末維新の「土佐藩出身の志士」と言えば、まずは坂本龍馬と中岡慎太郎です。
特に坂本龍馬は、「異様なほどに有名になった」と言える存在です。

高知の桂浜には、巨大な坂本龍馬像があり、その巨大さは他を圧するほどです。
とにかく、「高知・土佐と言えば坂本龍馬」の現代。
ところが、実際には坂本龍馬や中岡慎太郎の活躍は、かなり限定されたものであったのが実情でした。


我が乾家は、
武田家重臣の板垣信方の板垣家だ!
土佐藩の山内家類代の家臣であり、武田信玄の重臣として名高い板垣信方の流れを汲んだ乾退助。
若い頃から、剣術に入れ込んだ生粋の武士であった乾は、「藩士の見本」のような存在でした。
名前 | 生年 | 所属 |
大村 益次郎 | 1825 | 長州 |
西郷 隆盛 | 1827 | 薩摩 |
大久保 利通 | 1830 | 薩摩 |
木戸 孝允 | 1833 | 長州 |
坂本 龍馬 | 1835 | 土佐 |
乾 退助 | 1837 | 土佐 |
後藤 象二郎 | 1838 | 土佐 |
中岡 慎太郎 | 1838 | 土佐 |
高杉 晋作 | 1839 | 長州 |
久坂 玄瑞 | 1840 | 長州 |
「坂本龍馬と中岡慎太郎が二強」と思われがちな土佐藩ですが、乾退助と後藤象二郎の存在は外せません。
坂本龍馬、乾退助、後藤象二郎、中岡慎太郎(生年順)
彼ら4名を「土佐藩四天王」と呼びたいと思います。
そして、不思議なことに、土佐藩四天王は、1835年〜1838年の4年間に集まっています。
この中で、坂本龍馬が最も年長でありましたが、下士出身の龍馬の立場は極めて弱い存在でした。
上士であり、年齢的にも程よい年頃であった乾退助は、土佐藩四天王の中核的存在となりました。
土佐藩正規軍の中核:長宗我部侍と山内侍の相剋


そして、早々に土佐藩を脱藩してしまった坂本龍馬。
坂本龍馬の脱藩行に関する話を、上記リンクでご紹介しています。
1862年、27歳頃の時に脱藩した坂本龍馬。



土佐藩なんか、
脱藩するぜよ!
坂本龍馬の二つ年下であった乾退助は、坂本龍馬の脱藩を聞いて、



坂本さんが
脱藩したか・・・



だが、彼は下士出身であり、
上士の俺とは立場が全然違うからな・・・
土佐藩において、巨大な差があった「上士と下士の違い」を意識し、



まあ、俺は
土佐藩士・乾退助であり・・・



土佐藩脱藩など、
考えたこともないがな・・・
上士として恵まれた立場に生まれた乾は、「土佐藩脱藩」は「一瞬も考えたことがないこと」でした。
・薩摩:元々守護の家柄だった「根っからの大名」薩摩家
・長州:豪族(国衆)から「成り上がった大名」毛利家
・土佐:豊臣家の家臣から徳川家家臣へ移行した「家臣出身大名」山内家
・肥前:豪族(国衆)から成り上がった龍造寺家の「「重臣出身大名」鍋島家
後に、討幕(倒幕)の中核となった薩長土肥。
それぞれが、戦国時代の名家でしたが、土佐藩はかなり異質な存在でした。
もともとは、秀吉の家臣だった立場から、一気に土佐の覇王・長宗我部の本拠地に乗り込んだ山内家。
山内家関係の武士と長宗我部関係の武士で、強烈な軋轢が生じるのは当然のことでした。
何といっても、長宗我部侍にとっては、「格が違う」のが本音でした。



我が長宗我部は、
一時的とはいえ、四国の覇王となった・・・



豊臣や徳川ならば、
対等と考えてやっても良いが・・・



山内、だと・・・
秀吉の家臣、だと・・・
「超格下」であるはずの山内侍に「支配される」ことになった、長宗我部侍たち。
それに対して、どうしても「上から目線で圧するしかなかった」山内侍。
・上士:関ヶ原合戦で新たな国主(藩主)となった山内家の藩士(武士)
・下士と郷士:旧国主の長宗我部系の藩士(武士)
「関ヶ原」では、無念のお家取り潰しとなり、大坂の陣で「正式に消えた」長宗我部家。
長宗我部の流れを汲む下士や郷士には、「長宗我部の怨念」が刻み込まれていました。



俺は俺の流儀で、
この世を切り開いてくれるわ!
若き乾退助は奮い立ち、「土佐藩正規軍の中核」として討幕を牽引しました。