前回は「昭和天皇「この御前会議は実に厄介」〜葉山逃避止めた木戸内大臣・「生命も名誉もメンツも度外視」近衛文麿・曖昧な「十月上旬頃」〜」の話でした。
「皆はらから」平和の歌詠んだ昭和天皇:「原案通り粛々決定」国策

1941年9月5日、御前会議開催前日に、昭和天皇が「極めて強い懸念」を示した国策。
帝国は現下の急迫せる情勢、特に米、英、蘭等各国の執れる対攻勢ソ連の情勢及帝国国力の弾発性等に鑑み、「情勢の推移に伴う帝国国策要領」中南方に対する施策を下記により遂行す
一、帝国は自尊自衛を全うするため、米(英蘭)戦争を辞せざる決意の下に、概ね十月下旬を目途とし、戦争準備を完整す
二、帝国は右(上)に並行して、米、英に対し外交の手段を尽くして帝国の要求貫徹に努む
三、前号外交交渉に依り、十月上旬頃に至るも尚我要求を貫徹し得る目途なき場合に於ては、直ちに対米(英蘭)開戦を決意す
昭和天皇四方の海 皆はらからと 思う世に
など波風の 立ちさはぐらむ
御前会議において、昭和天皇は「明治天皇の平和の歌を詠む」挙に打って出ました。





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御前会議において、帝国政府・統帥部の是認が極大衝撃を受けました。
ところが、結局は何も変更がなされず、「原案通り粛々と決定」した国策。



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この時の昭和天皇の明確な気持ちは諸説ありますが、大きなショックを受けた、と推測します。
「暴力犯」帝国陸軍と「知能犯」帝国海軍:皇族も主戦派中心の状況





今日は、
参内します。



十月の初、伏見宮が
来られて、意見を述べられた。
いよいよ期限である「十月上旬」の間際になって、伏見宮・前軍令部総長がやってきました。
昭和天皇が「敬語を使う」立場であった伏見宮。
| 名前 | 生年 |
| 伏見宮 | 1875年 |
| 昭和天皇 | 1901年 |
| 秩父宮 | 1902年 |
| 高松宮 | 1905年 |
昭和天皇よりも26歳も年上であり、長く軍令部総長を務めた「帝国海軍のドン」だった伏見宮。
この頃の帝国海軍は「伏見宮が反対する事(主に人事)は一切通らない」状況にあった、説が有力です。



即、近衛、及川、永野、豊田(貞次郎外相)、
杉山、東條の六人を並べて、戦争可否論をさせ、



もし、和戦両論が半々であったらば、
戦争論に決定してくれ。



との
ことであった。
おそらく、もう少し言葉は丁寧であったと思われます。
それでも、昭和天皇に対して、「上から目線」だった伏見宮。
そして、「和戦半々なら、戦争論決定」を要求した、明らかに「戦争派」だった伏見宮。



私は、これには大蔵大臣(小倉正恒)を
参加せしむべきだと言って、不賛成を表明した。



高松宮も砲術学校に居た為、
若い者にたき付けられ、



戦争論者の
一人であった。





ここは
戦争に踏み切るべきです!
昭和天皇の4つ下の弟であった、高松宮も主戦論者でした。
こうして、皇族内部においても、「主戦論者に囲まれた」状況であった昭和天皇。



近衛、及川、豊田の三人は
平和論、



東條、杉山、永野の三人は
戦争論、



皇族その他にも戦争論多く、
平和論は少なくて苦しかった。
ここで、昭和天皇は素直に「苦しかった」と、正直な気持ちを告白しています。
| 大日本帝国憲法 | 日本国憲法 | |
| 公布 | 1889年(戦前・明治時代) | 1946年(戦後・昭和時代) |
| 主権 | 天皇 | 国民 |
| 天皇 | 神聖不可侵の元首 | 日本国民統合の象徴 |
| 戦争 | 天皇が陸海軍を率いる | 戦争を放棄 |
| 軍隊 | 国民に兵役義務 | 交戦権否定 |
現代の憲法とは、全く異なる憲法であった大日本帝国憲法。
大日本帝国憲法には、主権が天皇にあることを明記していました。
それにも関わらず、主権者であった昭和天皇の「平和論」は「通らない」不思議な現象が起きました。



東久邇宮、梨本宮、賀陽宮は
平和論だった、表面には出さなかった。
他に東久邇宮などの皇族は平和論だったものの、「表面には出さなかった」事実がありました。
この理由は、それほど「主戦論者が強かった」ことを意味していると考えます。



当時の海軍の肚はどうかと言うと、
陸軍は主戦論で押し通しているが、



海軍の方で、どうしても戦は
出来ぬと言うことならば、



強いて戦はせぬ、という
肚である。



海軍の方で、どうしても戦は
出来ぬと言うならば、強いて戦はせぬ!
超強硬派であった帝国陸軍でしたが、「海軍次第」と明言していました。



海軍は、



戦は出来ぬことはないが、
二年以降になると、



戦は戦術、戦略の問題ではなく、
財政経済の国力の問題となるのだから、



和戦の決定は、
総理大臣に一任!



と言う肚で
ある。
この「和戦の決定は、総理大臣に一任」は、及川海相の姿勢であったことが記録に残っています。
ここで、昭和天皇は、あえて及川海相の名前ではなく「帝国海軍の姿勢」としました。
要するに「責任を避けた」帝国海軍。
「陸軍悪玉、海軍善玉」とよく言われる一方、「陸軍暴力犯、海軍知能犯」と言われる所以です。
ここで、注目すべきは、共に「犯罪者である犯」という呼称であることでした。
つまり、帝国陸海軍は、「超険悪な仲」であると同時に「似た性質を持っていた」面がありました。



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もはや「米国との戦争」の秒読みが始まる中、昭和天皇の懸念は強まるばかりでした。

