「皆はらから」平和の歌詠んだ昭和天皇〜「原案通り粛々決定」国策・「暴力犯」帝国陸軍と「知能犯」帝国海軍・皇族も主戦派中心の状況〜|昭和天皇独白録32・昭和の真実

前回は「昭和天皇「この御前会議は実に厄介」〜葉山逃避止めた木戸内大臣・「生命も名誉もメンツも度外視」近衛文麿・曖昧な「十月上旬頃」〜」の話でした。

目次

「皆はらから」平和の歌詠んだ昭和天皇:「原案通り粛々決定」国策

New Historical Voyage
昭和天皇(Wikipedia)

1941年9月5日、御前会議開催前日に、昭和天皇が「極めて強い懸念」を示した国策。

国策:1941年9月6日(御前会議裁可)

帝国は現下の急迫せる情勢、特に米、英、蘭等各国の執れる対攻勢ソ連の情勢及帝国国力の弾発性等に鑑み、「情勢の推移に伴う帝国国策要領」中南方に対する施策を下記により遂行す

一、帝国は自尊自衛を全うするため、米(英蘭)戦争を辞せざる決意の下に、概ね十月下旬を目途とし、戦争準備を完整す

二、帝国は右(上)に並行して、米、英に対し外交の手段を尽くして帝国の要求貫徹に努む

三、前号外交交渉に依り、十月上旬頃に至るも尚我要求を貫徹し得る目途なき場合に於ては、直ちに対米(英蘭)開戦を決意す

昭和天皇

四方の海 皆はらからと 思う世に
など波風の 立ちさはぐらむ

御前会議において、昭和天皇は「明治天皇の平和の歌を詠む」挙に打って出ました。

New Historical Voyage
左上から時計回りに、近衛文麿首相、東條英機陸軍大臣、杉山元参謀総長、永野修身軍令部総長(国立国会図書館、Wikipedia)
近衛文麿

!!!!!

杉山元

!!!!!!!

永野修身

!!!!!!!

東條英機

!!!!!!!

及川古志郎

!!!!!!!

御前会議において、帝国政府・統帥部の是認が極大衝撃を受けました。

ところが、結局は何も変更がなされず、「原案通り粛々と決定」した国策。

昭和天皇

・・・・・

この時の昭和天皇の明確な気持ちは諸説ありますが、大きなショックを受けた、と推測します。

「暴力犯」帝国陸軍と「知能犯」帝国海軍:皇族も主戦派中心の状況

新歴史紀行
伏見宮博恭王 軍令部総長(Wikiepdia)
伏見宮

今日は、
参内します。

昭和天皇

十月の初、伏見宮が
来られて、意見を述べられた。

いよいよ期限である「十月上旬」の間際になって、伏見宮・前軍令部総長がやってきました。

昭和天皇が「敬語を使う」立場であった伏見宮。

名前生年
伏見宮1875年
昭和天皇1901年
秩父宮1902年
高松宮1905年
昭和天皇と皇族

昭和天皇よりも26歳も年上であり、長く軍令部総長を務めた「帝国海軍のドン」だった伏見宮。

この頃の帝国海軍は「伏見宮が反対する事(主に人事)は一切通らない」状況にあった、説が有力です。

伏見宮

即、近衛、及川、永野、豊田(貞次郎外相)、
杉山、東條の六人を並べて、戦争可否論をさせ、

伏見宮

もし、和戦両論が半々であったらば、
戦争論に決定してくれ。

昭和天皇

との
ことであった。

おそらく、もう少し言葉は丁寧であったと思われます。

それでも、昭和天皇に対して、「上から目線」だった伏見宮。

そして、「和戦半々なら、戦争論決定」を要求した、明らかに「戦争派」だった伏見宮。

昭和天皇

私は、これには大蔵大臣(小倉正恒)を
参加せしむべきだと言って、不賛成を表明した。

昭和天皇

高松宮も砲術学校に居た為、
若い者にたき付けられ、

昭和天皇

戦争論者の
一人であった。

New Historical Voyage
高松宮(Wikipedia)
高松宮

ここは
戦争に踏み切るべきです!

昭和天皇の4つ下の弟であった、高松宮も主戦論者でした。

こうして、皇族内部においても、「主戦論者に囲まれた」状況であった昭和天皇。

昭和天皇

近衛、及川、豊田の三人は
平和論、

昭和天皇

東條、杉山、永野の三人は
戦争論、

昭和天皇

皇族その他にも戦争論多く、
平和論は少なくて苦しかった。

ここで、昭和天皇は素直に「苦しかった」と、正直な気持ちを告白しています。

大日本帝国憲法日本国憲法
公布1889年(戦前・明治時代)1946年(戦後・昭和時代)
主権天皇国民
天皇神聖不可侵の元首日本国民統合の象徴
戦争天皇が陸海軍を率いる戦争を放棄
軍隊国民に兵役義務交戦権否定
日本国憲法と大日本帝国憲法

現代の憲法とは、全く異なる憲法であった大日本帝国憲法。

大日本帝国憲法には、主権が天皇にあることを明記していました。

それにも関わらず、主権者であった昭和天皇の「平和論」は「通らない」不思議な現象が起きました。

昭和天皇

東久邇宮、梨本宮、賀陽宮は
平和論だった、表面には出さなかった。

他に東久邇宮などの皇族は平和論だったものの、「表面には出さなかった」事実がありました。

この理由は、それほど「主戦論者が強かった」ことを意味していると考えます。

昭和天皇

当時の海軍の肚はどうかと言うと、
陸軍は主戦論で押し通しているが、

昭和天皇

海軍の方で、どうしても戦は
出来ぬと言うことならば、

昭和天皇

強いて戦はせぬ、という
肚である。

帝国陸軍

海軍の方で、どうしても戦は
出来ぬと言うならば、強いて戦はせぬ!

超強硬派であった帝国陸軍でしたが、「海軍次第」と明言していました。

昭和天皇

海軍は、

帝国海軍

戦は出来ぬことはないが、
二年以降になると、

帝国海軍

戦は戦術、戦略の問題ではなく、
財政経済の国力の問題となるのだから、

帝国海軍

和戦の決定は、
総理大臣に一任!

昭和天皇

と言う肚で
ある。

この「和戦の決定は、総理大臣に一任」は、及川海相の姿勢であったことが記録に残っています。

ここで、昭和天皇は、あえて及川海相の名前ではなく「帝国海軍の姿勢」としました。

要するに「責任を避けた」帝国海軍。

「陸軍悪玉、海軍善玉」とよく言われる一方、「陸軍暴力、海軍知能」と言われる所以です。

ここで、注目すべきは、共に「犯罪者である犯」という呼称であることでした。

つまり、帝国陸海軍は、「超険悪な仲」であると同時に「似た性質を持っていた」面がありました。

昭和天皇

・・・・・

もはや「米国との戦争」の秒読みが始まる中、昭和天皇の懸念は強まるばかりでした。

New Historical Voyage

この記事が気に入ったら
フォローしてね!

目次