前回は「昭和天皇の陸軍「けしからん」発言〜「朕の軍隊」勝手に動かした陸軍・「宇垣内閣潰し」関与していない昭和天皇・解釈困難な大日本帝国憲法〜」の話でした。
三国同盟推進した昭和天皇の弟・秩父宮:兄弟喧嘩を「この場限り」公表

昭和天皇が崩御した翌々年の1991年3月10日に出版された「昭和天皇独白録」。
「昭和天皇独白録」は、昭和天皇の貴重な発言を多数記録しています。
昭和天皇元来、陸軍のやり方は
けしからん。



朕の軍隊として、あるまじきような卑劣な方法を
用いるようなこともしばしばある。



まことに
けしからん話であると思う。
満洲事変から支那事変に至るまで、独断専行が横行し続けた帝国陸軍。
その帝国陸軍に対して、昭和天皇は激怒していたのでした。



それから之はこの場限りに
したいが・・・



三国同盟について、私は秩父宮と
喧嘩をして終わった。


ここで、昭和天皇の弟である秩父宮が登場します。
| 名前 | 生年 |
| 昭和天皇 | 1901年 |
| 秩父宮 | 1902年 |



秩父宮は、あの頃一週三回くらい
私の処にきて、同盟の締結を勧めた。



終には、私は、この問題については、
直接宮には答えぬと言って・・・



突っぱねて
しまった。
1歳年下の秩父宮が、昭和天皇に対して、



ドイツ・イタリアとの
三国同盟は締結すべきです!
このように、日独伊三国同盟締結を、昭和天皇にかなり強く勧めた事実を明らかにした昭和天皇。
「一歳違いの兄弟」は、仲が良いことは少なく、大抵は対立関係にあります。
おそらく、昭和天皇と秩父宮は幼い頃から競争意識を強く持っていたでしょう。
ここで、昭和天皇の、



それから之はこの場限りに
したいが・・・
「この場限りに」という言葉に反する形で、「昭和天皇独白録」は紹介しています。
この点は、宮内省・「昭和天皇独白録」編纂者の間にも、様々な思いがあったと思われます。
いわば「兄弟喧嘩」でしたが、宮中まで割るほど「三国同盟の賛否は割れた」ことを明らかにしました。
この点では、「昭和天皇の意に反した」同書の勇気を、筆者は讃えたいと考えます。
昭和天皇が頼りにし続けた米内光政:天皇に「辞職攻撃」した板垣陸相





又この問題については、
私は陸軍大臣とも衝突した。



私は板垣に、同盟論は撤回せよと
云ったところ、彼は、



それでは
辞表を出させて頂きます。



と云う。彼がいなくなると、
益々陸軍の統制が取れなくなるので・・・



遂に
そのままとなった。


本来「天皇=大元帥」であり、板垣陸軍大臣は、「頭が上がらない存在」だったはずの昭和天皇。
ところが、板垣大臣は、昭和天皇の「撤回せよ」に対して「辞職攻撃」で反撃しました。
当時の諸外国であれば、考えられない事態になっていた帝国政府と大本営。
主権者=最高意思決定者であった天皇に、一陸軍大臣が「背いていた」事実が明らかになりました。



当時、私の味方として頼みにしていたのは
前には(第一次近衛内閣にあっては、の意)米内(光政・海相)、



池田(成彬・蔵相)の
二人・・・



後では(平沼内閣では)有田(八郎・外相)、
石渡(荘太郎・蔵相)、米内(海相)の三人であった。
この昭和天皇が「味方として頼みにしていたメンバー」は極めて重要です。
そして、「前」でも「後」でも昭和天皇が頼みにしていた米内光政海相。


終戦(敗戦)時にも海相であり、一時は内閣総理大臣まで務めた米内光政。
その米内を、昭和天皇は「味方として頼みにし続けた」のでした。
この「昭和天皇独白録」の内容を昭和天皇が語ったのは、敗戦翌年の1946年。
すでに、昭和天皇は「超越した存在」ではなくなり、赤裸々に「頼みとする人物」を語りました。
昭和の戦前の時期に、海軍を統括し続けた米内光政を、とにかく昭和天皇は頼りにしていたのでした。



平沼は、同盟に
賛成らしかった。


平沼騏一郎の「日独伊三国同盟に対する姿勢」は諸説あります。
昭和天皇の視点から見れば「平沼は賛成派」だったようです。



又、白鳥、大島の両大使を推挙したことに
ついては、宇垣が関係している。


日独伊三国同盟の超推進派であった、大島浩駐ドイツ大使と白鳥敏夫 駐イタリア大使。


この二人を大使として任命した宇垣一成もまた、日独伊三国同盟の超推進派だったと考えます。
とにかく、主権者であるはずの昭和天皇が、全くコントロールが効かない国家となっていた大日本帝国。
世界史上、稀に見る「不思議極まりない異様な国家」となってしまっていた大日本帝国。
そして、この「不思議極まりない異様な国家」のまま対米戦に突入し、敗戦に至りました。

