前回は「当初関東への侵攻を目論んだ武田信玄〜関東地方の一部だった甲斐国・「海に全く面していない」甲斐国の超特殊な環境・水運と物流〜」の話でした。

事実上「二代目当主」に就任した武田晴信:信虎が統一した戦乱の甲斐

1521年に生まれた武田晴信(信玄)。
名前 | 生年 |
毛利元就 | 1497年 |
北条氏康 | 1515年 |
今川義元 | 1519年 |
武田信玄 | 1521年 |
長尾景虎(上杉謙信) | 1530年 |
織田信長 | 1534年 |
島津義弘 | 1535年 |
羽柴(豊臣)秀吉 | 1537年 |
徳川家康 | 1542年 |
後世の視点から見れば、有名戦国大名の中では、ちょうど中間的な時代に生まれました。
「戦国時代」と呼ばれる時代は、明確な時代区分がありませんが、概ね「応仁の乱以降」です。
応仁の乱が1467年に勃発し、世の中が荒れに荒れてから、50年以上経過して晴信(信玄)が生まれました。

そろそろ、平和な
時代になれば良いが・・・



近隣では各大名が、
自己の領土拡大しか考えておらぬ・・・
1521年に生まれた信玄は、物心がついた10歳頃には、このように感じていたでしょう。
甲斐守護という、当時としては「安定した守護大名出身の戦国大名」と考えられる武田。
守護大名:元々守護であった家・組織が軍事力を強化して大名化
戦国大名:元々は国衆や地侍等の「軽い身分」だった家・組織が軍事力を強化して大名化


実は、戦国初期に武田家内部は揉めに揉めていた甲斐を、



この信虎が
武田を統一する!
軍事力で「無理やり統一した」のが、父・信虎でした。
この意味では、名門武田家ですが、「二代目社長」に当たるのが晴信(信玄)でした。
そして、若き晴信は、甲斐統一後、周辺で暴れ回っていた信虎を追放したのが1541年でした。
まだ晴信が20歳の頃であり、重臣であった板垣信方らの信虎に対する反発が強かったと思われます。
そして、若き20歳にして、正式には「武田家第16代当主」となった「実質二代目当主」の晴信。



私は事実上、甲斐守護・武田家の
二代目だ!
以下では、武田信玄の名前で統一します。



甲斐を統一した後には、
隣国を得たい・・・
この武田信玄の「侵攻ルート」は、様々考えられました。
早期に美濃に侵攻すべきだった武田信玄:「関東の端」だった甲斐


「武力こそが正義」であったとも言える戦国時代は、世の中の秩序が壊れつつあった時代です。
一方で、室町時代の香りが強く残存していた当時、「足利将軍家による秩序」でまとまっていました。
そして、現在は、「中部地方と関東地方の間」である甲斐(山梨県)は、明確な「関東地方」でした。
そして、「鎌倉公方による支配領域」の「西の端」に位置していた甲斐。
現代の地図から考えると、「関東地方からポコっと出っ張った」位置にある甲斐。
甲斐が「関東地方の一つ」であることは、現代の視点から考えると、やや不自然です。
一方で、当時は現代のような正確な地図はなく、不正確な地図しかなかった当時。



我が甲斐は、
関東地方の一つ・・・
当時の人々にとっては「関東・東国の一つ」であることが、強く認識されていたのが甲斐でした。
信濃・駿河・相模・武蔵
山国・甲斐から侵攻する先の隣国は、上記の通り、信濃・駿河・相模・武蔵の4カ国が考えられました。
若い頃から老練な思考力を持っていた信玄は、



我が武田は
どこに攻め込むか・・・
隣国の様々な勢力であった今川家や北条家と、小競り合いを続けながら考え続けた信玄。


ところが、信玄が「二代目甲斐守護」に就任した頃は、相模と武蔵に蟠踞していた北条家が強力でした。
守護・守護代・国衆(地侍)出身 | 大名 |
守護 | 武田家・大友家・島津家・今川家 |
守護代 | 長尾家(上杉家)・朝倉家 |
国衆(地侍) | 三好家・織田家・徳川家・毛利家・北条家・(豊臣家) |
守護大名出身の武田家や今川家と比較すると、「出来星大名」でしかなかった北条家。



北条は、
かなり強力だ・・・


少し地味な存在の北条家ですが、名将・氏康に率いられた北条家には多数の優れた武将がいました。
そして、この頃、全国有数の石高を有した北条家は、「戦国最強」の大名の一つでした。
いわば、「武田家の格下」なのに「格上の実力」を持っていたのが北条家であり、



北条が強力すぎるから、
相模・武蔵への侵攻は難しい・・・



南の駿河は、同じ
守護大名の今川・・・
早々に相模・武蔵・駿河を侵攻先から「除外せざるを得なかった」信玄。
残りは信濃しかありませんでした。



信濃は、北条や今川に比べて
小粒の大名ばかりだ・・・



弱小勢力を
駆逐して、一気に信濃を押さえる!
この「武田家の信濃侵攻」は、最も合理的な発想でした。
そして、信濃に侵攻し、苦戦しながらも小笠原・村上・海野などの小大名を潰した信玄。
ほぼ信濃を制圧した上で、北に向かい、長尾景虎と激突しました。
ここで、信玄は、信濃の大半を押さえた上で、「戦略を再考」するべきであったかもしれません。



我が長尾家は、
守護代の家柄だ!
後に関東管領に就任する長尾景虎(上杉謙信)は、守護代・長尾家の流れを組む人物でした。
この点では、「室町の秩序」の範疇に入っていた長尾家。
地侍や国衆が反乱を起こし続けたとはいえ、越後を押さえていた長尾。



信濃の村上が
頼った長尾を倒す!
そして、景虎と川中島で死闘を繰り広げた信玄。
ここで、信玄は、「信濃の隣国には美濃もある」ことを考えるべきでした。
もし、ここで、信玄が冷静になり、「長尾と戦いすぎず、美濃に侵攻」していたら。



よしっ!
美濃へ侵攻する!
大きな潜在力を秘め、中央により近い位置にあった美濃。
この美濃を、早期に重視して、早い時期に武田家は侵攻すべきだったでしょう。
この時、武田家の未来も、戦国時代の様相も大きく変わったでしょう。