難所で一度引き返した「合理的」信長の戦術〜着実に進めた美濃攻略戦・「何事も軽々と実行に移した」信長・西美濃三人衆が織田家へ〜|美濃攻略戦6・信長公記31

前回は「織田家生粋の重臣・川尻秀隆の奮戦〜龍興登場と上手く撤退した信長・「三回も賞賛の使者」で激励した織田信長・苛烈な若き信長の虚像〜」の話でした。

目次

難所で一度引き返した「合理的」信長の戦術:着実に進めた美濃攻略戦

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織田信長の本拠地移転(新歴史紀行)

清洲城から、一時的に小牧山城に本拠地を移転し、美濃を攻撃し続けていた織田信長。

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信長公記(太田牛一著、中川太古訳、新歴史紀行)

信長公記によると、織田信長が尾張北部を制圧したのは1564年のことでした。

新歴史紀行
戦国大名 織田信長(歴史群像シリーズ 図説・戦国武将118 学研)

そして、31歳(数え年、以下同)になろうとしていた若き織田信長は、

織田信長

ゆけっ!
美濃を攻略するのだ!

家臣団を叱咤激励し、猛烈な勢いで美濃を攻略しようとしていました。

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織田家重臣 川尻秀隆(Wikipedia)
川尻秀隆

信長様、
この川尻秀隆、本丸に突入しました!

そして、信長公記の美濃攻略戦で登場するのは、丹羽長秀、川尻秀隆らの若手です。

名前生年(一部諸説あり)
林秀貞1513年
柴田勝家1522年
滝川一益1525年
太田牛一1527年
川尻秀隆1527年
佐久間信盛1528年
織田信長1534年
丹羽長秀1535年
羽柴秀吉1537年
織田信長と織田家重臣の生年

当時は、織田信長より21歳年上の林秀貞、12歳年上の柴田勝家ら長老たちが家老となっていました。

そして、川尻秀隆、太田牛一ら、信長より7歳年上の「兄貴分」たちが、信長を補佐していました。

信長公記

永禄九年(1566年)四月上旬、
信長は木曽川の大河を渡り、

信長公記

美濃の国、加賀見野に
軍勢を集結した。

信長公記に記載された「加賀見野」は「各務野」のことです。

この頃は「当て字」の発想が強く、漢字が異なっても「音が同じであれば良い」でした。

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戦国大名 斎藤龍興(Wikipedia)
信長公記

敵斎藤龍興は
井口から軍勢を出撃させ、

斎藤龍興

織田軍を
叩き潰すのだ!

信長公記

新加納の村に兵を配置して
守備についた。

信長公記

両所の間は難所で、
馬の足場も悪いので、

織田信長

むむ・・・
これは攻撃は難しいのう・・・

信長公記

信長は
その日は帰陣した。

太田牛一が描いた信長記は、信長の細かな戦略が緻密に描かれています。

調略はするもの、とにかく「力攻め」の印象が強い若き信長の戦い。

後に「軍神中の軍神」となる織田信長は、若き頃から、合理的戦いを繰り広げていました。

「何事も軽々と実行に移した」信長:西美濃三人衆が織田家へ

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斎藤家重臣 稲葉良通(一鉄、Wikipedia)

そして、翌永禄十年(1567年)、苦戦する織田軍に、大きな追い風が起きました。

信長公記

永禄十年八月一日、
美濃三人衆の稲葉一鉄・氏家卜全・安藤守就が申し合わせ、

稲葉良通

信長公のお味方に
参じますので、

稲葉良通

その保証として
人質をお受け取りください。

信長公記

と
申し合わせてきた。

信長公記

そこで信長は、村井貞勝・島田秀満を
人質の受け取りに西美濃へ派遣した。

「西美濃三人衆」と呼ばれることもある「美濃三人衆」稲葉一鉄・氏家卜全・安藤守就。

稲葉一鉄・氏家卜全・安藤守就は、西美濃において、大きな地盤をもつ地侍・国人たちでした。

織田信長

ついに、稲葉一鉄・氏家卜全・安藤守就らが
我が織田についたか・・・

新歴史紀行
美濃有力武将(国人)配置図(戦国合戦大全 歴史群像シリーズ50 学研)

現実には、「西美濃」というよりも、「美濃の南西部に多少の土地を有していた」のが安藤らでした。

諸説ありますが、どうやら氏家卜全の領土が最も富裕で広大だった説もあります。

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斎藤家家臣 竹中重治・半兵衛(図説・戦国武将118 学研)

この時点では、斎藤家の家臣だった竹中半兵衛は、安藤守就の娘婿となります。

そして、後に、「秀吉の郎党」として、織田家に仕えることになる竹中半兵衛重治。

竹中半兵衛重治に関する話を、上記リンクでご紹介しています。

信長公記

まだ人質も到着しないのに、
信長は急に軍勢を出し、

信長公記

稲葉山の続き、瑞竜寺山へ
駆け上がった。

織田信長

ここは、
勝機だ!

織田信長

人質など、待たずに
すぐに攻撃だ!

ここで、信長は「人質を待たずに果敢に攻撃した」ことを信長記は伝えています。

斎藤軍

これは何としたことか。
あれは敵か味方か。

信長公記

と斎藤方が迷っているうちに、
早くも町に火を放ち、

信長公記

寸時に稲葉山城を
はだか城にしてしまった。

信長公記

その日は、
ことのほか風が吹いていた。

織田信長

この強い風は
火攻めに良い・・・

織田信長

今だ!
人質を待たずに火攻めにする!

このように、若き信長は判断し、美濃三人衆の動きの前にガンガン攻めました。

信長公記

翌日、土木工事の分担を
指示し、

信長公記

稲葉山城四方に鹿垣を
結い廻して包囲した。

信長公記

そこへ、美濃三人衆も
駆けつけ、

稲葉良通

ややっ、
稲葉山城がはだか城に!

信長公記

肝を潰すほど驚きながらも、
信長に挨拶した。

稲葉良通

信長様、
稲葉良通にございます。

織田信長

こたびは、我が織田につくこと、
歓迎する!

信長公記

信長は、何事も
このように軽々と実行に移したのである。

ここで、信長公記は、信長に対して「何事も軽々と実行に移した」と記録しました。

この記録は重要であり、若き信長像を彷彿とさせます。

難攻不落といわれた稲葉山城でしたが、信長の機転により、一気に「はだか城」になってしまいました。

織田信長

いよいよ、稲葉山城を
落とすのだ!

そして、信長は、総まとめとして、いよいよ稲葉山城総攻撃に入ります。

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