唯一人高台に上がって矢を射続けた太田牛一〜俊敏に出陣し続けた若き織田信長・強風活かした松明投げ込み戦術・若き織田軍団の強烈な迫力〜|美濃攻略戦4・信長公記29

前回は「美濃侵攻緒戦で大活躍「米五郎左」丹羽長秀〜敵の給水源遮断戦略・美濃と尾張の国境にあった犬山城辺の川・美濃の一角が織田家へ〜」の話でした。

目次

俊敏に出陣し続けた若き織田信長:強風活かした松明投げ込み戦術

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織田信長の本拠地移転(新歴史紀行)

桶狭間の合戦後、1564年に尾張ほぼ全土の統一に成功した織田信長。

守護・守護代・国衆(地侍)出身大名
守護武田家・大友家・島津家・今川家・大内家・六角家
守護代長尾家(上杉家)・朝倉家・尼子家
国衆(地侍)三好家・織田家・徳川家・毛利家・北条家・(豊臣家)
戦国期の大名の家柄:守護・守護代・国衆(地侍)

織田信長が若かりし頃は、まだまだ「室町幕府、征夷大将軍が明確に存在する室町時代」でした。

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室町幕府第十三代将軍 足利義輝(Wikipedia)
足利義輝

この足利義輝が
第十三代将軍なのだ!

織田信長が、美濃攻略戦を本格化した1564年当時、将軍は足利義輝でした。

この翌年の1565年、足利義輝は、三好一党に攻め立てられて、殺害されるに至ります。

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信長公記(太田牛一著、中川太古訳、新歴史紀行)

やや淡々とした記載が多い信長公記ですが、この頃の織田信長の活動を丹念に記録に残しました。

信長公記

上下から攻められて、猿啄城はたちまち破綻し、
城兵は降参して退去した。

1564年、織田信長の重臣であり、側近であった丹羽長秀が美濃・猿啄城を陥落させました。

信長公記

猿啄から三里(約12キロメートル)奥に
加治田の城というのがあった。

信長公記

城主は、佐藤紀伊守・息子右近右衛門という
父子が織田方の味方となって居城していた。

信長公記

美濃方の長井道利は、加治田を攻めようとして、
二十五町(約2.7キロメートル)離れた堂洞というところに砦を構え、

信長公記

岸勘解由左衛門と
多治見一党を配備した。

信長公記

そして、長井道利は、
有名な鍛治の村である関というところから、

信長公記

五十町離れた本陣に
詰めていた。

信長公記

このような情況から、加治田を攻められると判断して、
永禄七年(1564年)9月28日、信長は出馬し、

信長公記

堂洞を包囲して
攻撃した。

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戦国大名 織田信長(歴史群像シリーズ 図説・戦国武将118 学研)
織田信長

堂洞を
攻撃するのだ!

若き信長は、とにかく俊敏に動き続け、立て続けに出陣していました。

唯一人高台に上がって矢を射続けた太田牛一:若き織田軍団の強烈な迫力

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左上から時計回りに、戦国大名 武田信玄、織田信長、毛利元就、上杉謙信(歴史群像シリーズ 図説・戦国武将118 学研、Wikipedia)
名前生年
毛利元就1497年
北条氏康1515年
今川義元1519年
武田信玄1521年
長尾景虎(上杉謙信)1530年
織田信長1534年
島津義弘1535年
羽柴(豊臣)秀吉1537年
徳川家康1542年
有名戦国大名の生年

1564年、31歳(数え年、以下同)になろうとしていた織田信長は、とにかく攻撃を続ける人生でした。

この頃、信長の13歳年上の武田信玄が、脂が乗り切った44歳でした。

川中島第N次の戦い
11553
21555
31557
41561
51564
川中島の戦い年表

1564年は「最後の川中島の戦い」を指揮した武田信玄。

川中島の戦いに関する話を、上記リンクでご紹介しています。

信長公記

三方が谷で、
東方は丘続きである。

信長公記

その日は、
風が強く吹いていた。

信長公記

信長は駆け廻って
情況を見、

織田信長

松明を作り、持ち寄って、
塀ぎわに詰め寄ったら、

織田信長

四方から
投げ入れよ!

信長公記

と命じた。
一方、長井道利は織田勢を後ろから攻めようとして、

信長公記

堂洞砦の下二十五町の山下まで
進出し、軍勢を配備したが、

信長公記

足軽さえも
出撃させなかった。

「桶狭間」などの年の記録に誤りがあり、一部で疑惑がある信長公記。

その一方、堂洞砦攻撃の時は、「強かった風」を活かした戦略を信長が取ったことまで記録に残しました。

この点で、信長公記の信憑性は極めて高く、多少の時間的間違いはやむ得ないと考えます。

信長公記

信長は、長井勢を迎え撃つ兵を
別に配置しておいて、砦を攻めさせた。

信長公記

命令通り、松明を投げ入れ、
二の丸を焼き崩したので、

信長公記

城内の敵は本丸に
入って、一団となった。

信長公記

この時、二の丸入口にある高い建物の上に
太田牛一がただ一人で上がり、

信長公記

無駄矢もなく、矢を射かけて
いたのを信長が見て、

織田信長

小気味良い
見事な働きである!

信長公記

と三度も使いの者を
よこした。

信長公記

賞賛して、
知行を増やしてくれた。

ここで、信長公記の著者である太田牛一自身が合戦に登場する面白い展開になりました。

1527年生まれ(諸説あり)説が有力な太田牛一。

信長の7歳年上であり、この堂洞城攻めの時は、38歳の歳でした。

当時の発想としては、前線の兵士としては「やや高齢」だった太田牛一。

ところが、

太田牛一

私はただ一人で
高い建物の上に上がって、

太田牛一

矢を射かけ続けて、
信長様に認められたのだ!

太田牛一は、このように自身の合戦での戦功を高らかに歌いました。

若き織田信長を取り巻く、若き織田勢と重臣たち。

名前生年(一部諸説あり)
林秀貞1513年
柴田勝家1522年
滝川一益1525年
太田牛一1527年
川尻秀隆1527年
佐久間信盛1528年
織田信長1534年
丹羽長秀1535年
羽柴秀吉1537年
織田信長と織田家重臣の生年

そして、確かに、1564年頃の織田家の未来は明るかったのでした。

強烈な光を放ち、戦国時代に乱入した、若き織田信長が率いた織田家。

この頃、「織田家が覇者になる」と思っていた人物は皆無でしょう。

織田信長

この信長が、
戦国の覇者になるのだ!

当の織田信長を除いては。

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