前回は「武田信玄 11〜川中島への信玄の思い 2〜」の話でした。

上杉謙信と五度に渡り、川中島で死闘を繰り広げた武田信玄。
川中島第N次の戦い | 年 |
1 | 1553 |
2 | 1555 |
3 | 1557 |
4 | 1561 |
5 | 1564 |
1553年から1664年と 12年もの長きに渡る戦いでした。
そもそも、なぜ武田信玄と上杉謙信の二人が、この川中島で死闘を繰り広げたのか。
上杉謙信には明白な理由があります。

そもそも、春日山城からもほど近い川中島。
ここを武田に領有されると、本拠地が危険です。
そして、信濃全土の制圧目指して、川中島周辺から国人・村上義清を追っ払った武田晴信(信玄)。

もう少しで、
信濃制圧だ!
川中島さえ獲得すれば、信濃全土を掌握できる武田家。
村上義清たちは長尾景虎を頼って、越後へゆきます。



私が晴信を
倒して見せよう!
比較的生産力の高い信濃を「全土欲しい」気持ちは当然ですが、無理をする必要はありません。
実際、この後領土を拡張してゆく武田家。
上野・遠江などでは「全土の制圧」が出来なくても、部分的に制圧しました。
制圧地域からの収入があればよく、キリ良く全土を制圧しなくても良いからです。
当時、若手のホープだった長尾景虎を、わざわざ敵に回して戦った晴信。
それには、信玄側にも大きな理由がありました。


その秘密は善光寺です。
千曲川と犀川という河川交通の結節点にあった川中島は、交通の要衝でした。
この要衝に陣取っていた善光寺は、諏訪上下社と並ぶ「信濃二大聖地」の一つでした。
つまり、古来からの大きな宗教勢力が地元の経済を握り、独立した経済圏を確立していたのです。



諏訪氏を
討滅した!
この前に、諏訪頼重を叩き潰し、諏訪氏を傘下に納めた武田家。
のちに、頼重の娘を側室とした晴信の元に誕生したのが、のちの四郎勝頼でした。


これは後の話となりますが、信濃の制圧を目論む晴信にとっては、



なんとしても善光寺を
傘下に納めなければ!
という気持ちでした。
「信濃の二大聖地」だけに、両方制圧して初めて信濃の完全掌握に繋がります。


甲斐源氏の流れを汲む名門 武田氏。
しかし、他の様々な大名同様に、武田家も相続で揉めに揉めました。
信玄の父 信虎の代になって、やっと信玄の武田家によって甲斐が統一されたのです。
そして、他国である信濃に侵攻した信玄。



川中島を制覇することが、
さらに武田が飛躍する基礎だ!
信濃の制圧を固めて初めて、さらに他国に安心して勢力拡張できるのです。



海がない甲斐・信濃には、
せめて河川交通を掌握したい!
そして、流通路の要衝でもある川中島は、晴信が「どうしても欲しい」土地だったのです。