前回は「尾張と美濃の民衆が多かった「信長の夢の都市」安土〜尾張重視の信長・「金品持ち出し+安土城放火」峻拒した蒲生賢秀・戦略と世評と生き方〜」の話でした。
世界初の豪華絢爛「安土城」守った蒲生賢秀:「金銀散りばめた」城

織田信長が新たに作った「夢の新都心」であった安土。
そして、新都心・安土の象徴として、信長が築いた安土城。

織田信長近江の安土に
新たな巨城を築くのだ!



そして、その巨城は、
我が国初であり、世界初である城だ!
安土城は、当然ながら「我が国初」であり、「世界初」となりました。
信長が、安土城築城を命じたのは、1576年であり、「長篠」の翌年でした。
「長篠」で武田軍に痛恨の打撃を与えた織田・徳川軍。
その一方で、武田勝頼は再起を試み、武田領は、「長篠」後に最大版図となりました。
そのため、「長篠」の評価は様々です。
信長の「安土築城」を考えると、「武田に痛恨の打撃」が正しい評価と考えます。


そして、1579年に完成した豪華絢爛たる「世界で最も華麗な城」となった安土城。
ところが、たった3年後に「本能寺」が勃発しました。
そして、安土城の主であった織田信長が、突然消えてしまいました。





と言った。けれども、
蒲生賢秀は類まれな無欲の人だった。



信長公が年来御心を尽くして、
金銀を散りばめた、



天下に二つとないお城を造ったのを、
蒲生の一存で焼き払い、



むなしく焦土と化してしまうのは、
畏れ多いことだ。



その上、金銀や名物の道具類を
勝手に持ち出しては、



世間の嘲りの種にも
なろう。



と考えた。
安土の城は、木村高重に預けおいて、



婦人たちは、それぞれに警固の兵を
付け、退去して行った。



下々の女中たちは
徒歩で従ったので、



足に血がにじんで、
哀れな様子は目も当てられぬほどだった。
豪華絢爛たる、当時「世界最高の城」であった安土城を「焼き払う」選択を蒲生賢秀は峻拒しました。
この蒲生賢秀の判断こそは、実に冷静沈着であり、極めて優れた判断と考えます。


息子の蒲生氏郷は、かなり高名な武将ですが、氏郷の影に隠れて「無名に近い」蒲生賢秀。
この超緊急時に、これほど冷静な判断が出来た賢秀には、ぜひ、もう少し活躍して欲しかったです。
信長がもう少し長く存命し、織田政権のもとで、近江周辺をまとめる可能性があった蒲生賢秀。
ある意味では、「本能寺」は、蒲生賢秀の運命を大きく左右しました。
船で桑名から熱田に逃走した徳川家康:謎の家康「伊賀越え」と航路の謎


そして、信長公記は、安土から、家康のいる堺に話が移ります。



こうした中で、
徳川家康、穴山梅雪、長谷川秀一の一行は、



和泉の境で、
信長父子自害のことを聞き及び、



取るものも
とりあえず、宇治田原を経て退去した。



な、なにっ!!!
信長様がっ!!!
信長公記は、最後の最後に、家康の動向に、ほんの少し触れて終わりになります。



しかし、途中で一揆勢に
遭遇し、穴山梅雪は殺害された。



徳川家康と長谷川秀一は、
桑名から船に乗り、熱田の港に着いた。
ここで、信長公記は終了となります。
最後の最後は、あまりにもあっさりとした記載となりました。
太田牛一が、信長公記を書いた時代は、「豊臣の時代」である説が有力です。
「豊臣の時代」でしたが、事実上は「豊臣・徳川の時代」だった当時。
家康の影響力は、「本能寺」時点よりはるかに巨大なものとなっていました。
この観点から見ると、もう少し「家康の挙動」は書いて欲しかった、と筆者は感じます。
あるいは「信長公記」だけに、「信長以外のこと」は、牛一はあまり興味がなかったのかもしれません。
いわゆる「伊賀越え」を敢行し、成功した徳川家康。
「伊賀越え」は、謎が多く、真相はハッキリしないのが実態です。
更に、「伊賀越え」の後は、陸路ではなく海路を取ったのは間違いない家康。
ここで、不思議な点は「桑名で乗った」は合理的ですが、不思議なのは「熱田の港に着いた」という記載です。


「熱田」とは、熱田神宮のあるエリアで、当時は現代よりも大きな街でした。
熱田神宮の話を、上記リンクでご紹介しています。



よしっ、堺から
伊賀を抜けて、桑名に着いた!



ここからは、船に乗って、
我が領土へ向かう!
船に乗って向かう先は、当然ながら、徳川領であった三河・遠江・駿河であるはずでした。
織田領であった熱田を通っても、徳川領には行けます。
ところが、「本能寺」で、当時の織田領は状況が不明でした。
この点を考えると、船で「桑名から三河、又は遠江へ行く」のが、当然の選択肢であった家康。
わざわざ、危険の可能性があった織田領である熱田で「海路を終えた」意図は不明です。
確かに、大きな港であった熱田は、船の出入りはしやすかったと考えます。
あるいは、海流や天候などの理由があったかもしれません。
いずれにしても、「本能寺」を描き切った信長公記。
その最後は、あっけないほどあっさりした記述となりました。


