前回は「丁寧に家臣を統率した信長〜織田軍に味方した台風級の暴風雨・「敵が掛かってきたら引き、敵が退いたら追う」シンプルな戦い方〜」の話でした。
信長会心の全軍突撃:「水を撒くようにどっと崩れた」今川軍

信長の一生を詳細に綴った、信長の家臣であった太田牛一が編纂した信長公記。
信長公記には、「桶狭間」の詳細が、極めて緻密に描写されています。
信長公記北西を向いて布陣した敵には、
雨は顔に振り付けた・・・



味方には後方から
降りかかった・・・
織田軍が今川軍めがけて突進している時に、台風級の暴風雨が降り始めました。
「味方には後方から降りかかる」という、織田軍にとって極めて好条件の天候となりました。
ここで、「熱田神宮における挿話」が知られていますが、信長公記には記載ありません。





この合戦は熱田大明神の
神慮による戦いか!
織田軍が一丸となって、「熱田大明神がついている」と盛り上がったことが記載されています。


いよいよ、織田信長自ら率いた「織田信長軍」が今川軍に突っ込みます。



空が晴れたのを見て、
信長は槍をおっ取り、大音声を上げて・・・



それ、掛かれ!
掛かれ!



と叫び、
黒煙を立てて打ち掛かるのを見て・・・



敵は水を撒くように後ろへ
どっと崩れた・・・
「桶狭間」には諸説あり、暴風雨の中、織田軍が今川軍に突っ込んだ説もあります。
ここでは、「晴れた後」と明記されている点が重要です。
さらに、いわば「全軍突撃」を掛けた織田軍に対して、「水を撒くように」崩れた今川軍。



弓・槍・鉄砲・幟・差し物、
算を乱すとはこのことか・・・



義元の朱色の輿さえ
打ち捨てて、崩れ逃げた・・・
あっという間に、今川軍が壊滅状態になったことを、信長公記は明らかにしています。



義元の旗本はあれだ!
あれに掛かれ!



と信長の下知・・・
未の刻、東へ向かって攻めかかる・・・
時刻、包囲を極めて緻密に描写しています。



敵は、初めは三百騎ばかりが
丸くなって、義元を囲んで退いたが・・・



二、三度、四度、五度と引き返し、
打ち合い切り合ううちに・・・



次第次第に人数が減り、
ついには五十騎ほどになった・・・
ある意味では地味ですが、目の前で合戦が行われているように感じるほど、明瞭な記載です。
「正面突撃」だった桶狭間:「この上もない難所」桶狭間


歌川豊宣による「桶狭間」の絵でも、まるで「暴風雨の中」での戦いのように見える「桶狭間」。
信長公記の記載では、「台風級の暴風雨が晴れた後」に、信長は全軍突撃しました。
「暴風雨の中」で「織田軍に有利」が、昭和末期まで説としては有力でした。
実は、「暴風雨から晴れの天候移行期」の方が、今川軍の動きが鈍ったかもしれません。



信長も馬を降り、若武者どもと
先を争うように、突き伏せ、突き倒す・・・



頭に血がのぼった若武者ども、
乱れ掛かって鎬を削り、鍔を割り・・・



火花を散らし、
火焔を降らす・・・
信長自身が、先頭切って今川軍に全軍突撃した模様が、生き生きと描写されています。



乱戦だが、敵味方の区別は
旗指し物で知れた・・・



ここで、信長のお馬廻り、お小姓衆の歴々、
負傷・討ち死にした者、数も知れない・・・
信長側近の小姓たちも、大勢討ち死にした事実を、ここで明記しています。



服部春安は義元に
打ちかかり、膝口を切られて倒れ伏す・・・



毛利良勝は、義元を
切り伏せて首を取った・・・
一気に壊滅状態に陥った今川軍は、あっさりと総大将・義元の首が取られてしまいました。



後日・・・



これもひとえに、先年、清洲の城で
守護が攻め殺された時・・・



毛利十郎が幼君を一人保護して助けた、
その冥加がここに現れて・・・



義元の首を
取れたのだ・・・



と人々が
噂した・・・
このように、義元の首を取った毛利良勝の幸運に対する、民衆の声を記載しています。



今川勢は運の尽きた
証拠だろうか・・・



桶狭間というところは狭く入り組んで、
深田に足を取られ・・・



草木が高く・低く茂り、この上もない
難所であった・・・



深い泥田へ逃げ込んだ敵は、
そこを抜け出せずに這いずり回るのを・・・



若武者どもが追いかけ追い着き、
二つ、三つと手に手に首を取り持って・・・



信長の前へ
持参した・・・



首はどれも
清洲で検分する!



と信長は言い、
義元の首だけはここで見て・・・



満足この上も
なかった・・・



出撃してきた時の道を
通って、清洲へ帰陣した・・・
信長軍の今川軍への全軍突撃に関しては、比較的あっさりと記載しています。
「奇襲攻撃」であった「桶狭間」では、信長率いる織田軍が「迂回して側面から攻撃した」説が有力です。
ところが、信長公記では「側面攻撃」は一切記載なく、むしろ「正面攻撃」に近いです。
歴史学界では、「正面攻撃」と「側面攻撃」で説が割れていますが、筆者は「正面攻撃」を採用します。
太田牛一の記述には、整合性が高く、「暴風雨直後の晴れの中、一気に突撃」だった桶狭間。
桶狭間という場所が、「この上もない難所」という記述も重要です。
随所に、信長の若々しさと老練さが垣間見える記述からは、信長の正確な像が見えてきます。

