前回は「「深田に一騎ずつ」を強行した信長〜「敦盛だけ」の信長と「三番」の義元・若いながら老練な家康・「信長止めた家老」への配慮〜」の話でした。
「敵が掛かってきたら引き、敵が退いたら追う」シンプルな戦い方

信長の家臣であった太田牛一が、「本能寺後」に編纂を開始した説が有力である信長公記。
信長公記には、桶狭間の戦いの詳細が、明瞭に記載されています。
丸根・鷲津砦が陥落し、多数の織田家家臣が討ち死にする中、信長は出撃しました。
信長公記しかし、信長は、これを
振り切って中島へ移動した・・・



この時、信長勢は二千に満たない
兵数であったという・・・
家臣の「正しい進言」を振り切って、わざわざ深田を突き進んだ信長。



中島から、
また将兵を出撃させた・・・



この時は無理にすがりついて、
信長自身の出撃を止めたのだが・・・



ここで、信長は
言った・・・





皆、
よく聞けよ!



今川の兵は、宵に腹ごしらえ
をして夜通し行軍し・・・



大高へ兵糧を運び入れ、
鷲津・丸根に手をやき・・・



辛労して疲れている
者どもだ!



こっちは新手の
兵である!



しかも、「少数の兵だからといって多数の敵を
恐れるな。勝敗の運は天にある」ということを知らぬか!



敵が掛かってきたら引け、
敵が退いたら追うのだ!



何としても敵を練り倒し、
追い崩す!



たやすい
ことだ・・・



敵の武器など分捕るな!
捨てておけ!



合戦に勝ちさせすれば、この場に
参加した者は家の名誉・・・



末代までの高名であるぞ!
ひたすら励め!
この信長が言った言葉こそ、合戦・戦争の本質の中核をついていました。
「敵が掛かってきたら引き、敵が退いたら追う」という極めてシンプルな戦い方。
信長自身が「たやすいことだ」と言っている通り、この通り戦えば、大抵勝てそうです。
27歳とは思えない、老練した、着実な戦略・戦術を信長が採用していたことは重要な事実です。
織田軍に味方した台風級の暴風雨:丁寧に家臣を統率した信長





こう言っているところへ、
前田利家・毛利長秀・毛利十郎・・・



木下嘉俊・中川金右衛門・
佐久間弥太郎・森子介・安食弥太郎・魚住隼人・・・



これらの者が手に手に
敵の首を取って、持ってきた・・・
ここで、信長の幼い頃からの側近である前田利家が登場しました。
後に、加賀百万石の創始者となり、牛一が信長公記を編纂開始した頃には、大大名だった前田。
この前田をきちんと明記することは当然ですが、他に8名も詳細な名前を記載しています。
太田牛一の、非常に几帳面、かつ歴史を記述する真摯な姿勢が伺えます。



これらの者にも、
右の趣旨をいちいち言い聞かせた・・・
この記述も重要です。
後世、「天魔の覇王」と呼ばれ、独断専行、家臣を「機械のように使った」印象がある信長。
若き頃は、懇切丁寧に、しかも出陣中の慌ただしい中、きちんと家臣を統率していました。



山ぎわまで軍勢を
寄せた時、激しいにわか雨が・・・



石か氷を投げ打つように
降り出した・・・



北西を向いて布陣した敵には、
雨は顔に振り付けた・・・
ここで、有名な「桶狭間の大雨」が登場します。
さらに、牛一は「北西を向いて布陣した敵」と、方位と雨の状況を詳細に記述しています。



味方には後方から
降りかかった・・・
「味方には雨が、後方から降りかかった」点も極めて重要な記述です。



沓懸の峠の松の根方に、
二抱え三抱えもある楠の木が・・・



雨で東へ
振り倒された・・・
地味な記載ですが、「大木が振り倒された」事実を記述し、台風級の暴風雨であったようです。



あまりにも
幸運なことに・・・



この合戦は熱田大明神の
神慮による戦いか!



と皆が
言った・・・
「天候が織田家側についている」かのような状況となり、織田軍の士気は猛烈に上がりました。
この時点で、「勝負あり」であった「桶狭間」。
台風級の猛烈な風雨を味方に、織田軍は猛烈な勢いで突き進みました。



!!!!!



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戦場で謡を三もうたった「間が抜けた感覚」であった今川軍めがけ、一心不乱に。

