前回は「「信長と一緒に駆けた」五名の小姓のフルネーム〜不思議な「〜守」・「謡を三番うたった」今川義元・緻密過ぎる牛一の描写〜」の話でした。
「敦盛だけ」の信長と「三番」の義元:若いながら老練な家康

織田信長の全人生を描きった信長公記。
戦国時代の書籍で、現在まで伝わるものは、江戸時代の講談などを含めると多数あります。
この中、「信長の家臣であった太田牛一」が作成した、リアルな信長公記は極めて資料価値が高いです。
| 名前 | 生年 |
| 毛利元就 | 1497年 |
| 北条氏康 | 1515年 |
| 今川義元 | 1519年 |
| 武田信玄 | 1521年 |
| 太田牛一 | 1527年 |
| 長尾景虎(上杉謙信) | 1530年 |
| 織田信長 | 1534年 |
| 島津義弘 | 1535年 |
| 羽柴(豊臣)秀吉 | 1537年 |
| 徳川家康 | 1543年 |
信長公記兜をかぶって
出陣した・・・



これら主従六騎、
熱田まで三里を一気に駆けた・・・
「桶狭間」の時、わずか27歳(数え年、以下同)だった信長は、小姓五人と一気に駆けました。





五月十九日午の刻、
義元は北西に向かって陣を張り・・・



鷲津・丸根を攻め落とし、
満足これに過ぎるものはない!



と言って、謡を三番
うたったそうである・・・
これに対して「楽勝感満々」の今川義元は、陣中でうたいました。
信長は清洲城で敦盛を舞ってうたい、義元は陣中で戦場の状況を見ながらうたったことが対比的です。
さらに、信長は「敦盛だけ」であり、義元は「三番」うたったことも、大事な視点です。



この度の合戦に徳川家康は、
朱色の武具をつけて今川方の先陣をつとめた・・・
いよいよ、徳川幕府初代将軍となった徳川家康が「桶狭間」に登場しました。
この頃は松平元康という名前であり、後の徳川家康とは「康」の字のみ共通した名前だった家康。
ここでは、牛一の記述に倣い、松平元康ではなく、徳川家康で通します。



大高城へ兵糧を補給し、鷲津・丸根攻めに
手を焼き苦労したので・・・



人馬に急速をとらせて、
大高に陣を据えていた・・・
1543年生まれ(諸説あり)で、「桶狭間」では、まだ18歳の超若者だった家康。
若者らしい猪武者らしさは皆無であり、老練に、慎重に戦いっていたことが見受けられます。
「深田に一騎ずつ」を強行した信長:「信長止めた家老」への配慮





信長が善照寺まで来たのを知って、
佐々政次・千秋季忠の二将が兵三百ほどを率いて・・・



今川勢に向かい、勇躍して突き進んだところ、
敵がたからも、どっと攻めかかってきて・・・



槍の下で千秋季忠・佐々政次をはじめとして
五十騎ほどが討ち死にした・・・
織田軍と今川軍の初期の戦闘を、武将名、参加兵力、損傷兵力など極めて詳細に描いています。
信長が駆けた時は「主従六騎+兵二百」と「騎」は指揮官クラスを指すものと考えます。
ここでは、「五十騎ほど討ち死に」と記載あり、「指揮官クラスと兵を混ぜた記載」となっています。
この辺りは、意図的なのか、多少混ぜて記述しているのか、不明です。
とにかく、緒戦では、砦の籠城戦・野戦いずれも「織田軍に部が悪い」状況でした。



これを見て
義元は・・・



義元の矛先には
天魔・鬼神もかなうものか。良い心持ちだ!



と喜んで、
悠々と謡をうたい、陣を据えていた・・・
自軍が押している状況を喜び、調子に乗って、再び「謡をうたった」義元。



信長は戦況を見て、中島へ
移動しようとしたところ、



中島への道は両側が深田で、
足を踏み込めば、動きが取れず・・・



一騎ずつ縦隊で進むしか
ありません・・・



軍勢少数であることを、
敵方にはっきりと見られてしまいます・・・



もっての
ほかでございます・・・



と、家老衆が信長の馬の轡(くつわ)に取りついて、
口々に言った・・・



しかし、信長は、これを
振り切って中島へ移動した・・・



この時、信長勢は二千に満たない
兵数であったという・・・
この信長の家老が何者かは、不明ですが、林秀貞の可能性が高いと考えます。
佐々政次・千秋季忠などの武将名を明記しながら、家老の名前を明記しない姿勢は不思議です。
これは、ネガティブな印象なので、「進言した家老への配慮」と思われます。
ただし、この家老の進言は極めて真っ当でした。


まさに島津vs龍造寺の戦いであった、沖田畷の戦いの状況と極めて酷似しています。
この時、進撃した龍造寺隆信は敗死し、同様に進撃して勝利した織田信長。
沖田畷の戦いに関する話を、上記リンクでご紹介しています。
この「常識を覆して進撃した信長」の描写こそ、若き信長の飛躍を予期させます。


