織田家の中核であり続けた飛武神・柴田勝家〜軍事力と功績随一だったベテラン柴田・諜報戦略重視の羽柴秀吉・羽柴秀吉が「見習った」丹羽と柴田〜|柴田勝家9・人物像・軍事能力・エピソード

前回は「諜報戦略を軽視した飛武神・柴田勝家〜思わぬ「背水の陣」と大敗北・軍事の天才織田信長の「謙信との戦い」の考え・諜報の真髄を極めしもの羽柴秀吉・猿を軽視し続けた権六〜」の話でした。

柴田勝家(歴史群像シリーズ 図説・戦国武将118 学研)
目次

織田家の中核であり続けた飛武神・柴田勝家

戦国武将 丹羽 長秀(歴史群像シリーズ 図説・戦国武将118 学研)

長らく織田家において筆頭家老であり、織田家の超重鎮であり続けた柴田勝家。

丹羽長秀と共に、若き信長を支え続けました。

ワシは信長様の父・信秀様の
代から仕え続けてきた!

いわば、ワシは
織田家の中核であり続けたのだ!

名前生年(一部諸説あり)
織田信長1534年
柴田勝家1522年
滝川一益1525年
明智光秀1528年
丹羽長秀1535年
羽柴秀吉1537年
織田信長と織田家方面司令官の生年

実際は、柴田勝家と丹羽長秀は13歳もの年齢差があります。

諸説ある織田四天王においては、必ず入るべき存在である柴田勝家。

織田四天王:左上から時計回りに柴田勝家、明智光秀、羽柴秀吉、滝川一益(歴史群像シリーズ 図説・戦国武将118 学研)

織田家重鎮の武将の中でも、かなり年長の柴田勝家は信長より12歳年上です。

年齢でつぐ滝川一益よりも3歳年上であり、年齢的にも「織田家の重鎮」でありました。

実力主義である戦国時代においては、現代よりも「年齢よりも実力」かもしれません。

とは言っても、人間である以上「年齢差」はある程度気になるのが当然でしょう。

軍事力と功績随一だったベテラン柴田

戦国大名 織田 信長(歴史群像シリーズ 図説・戦国武将118 学研)

9歳年上で、本能寺の変直前には58歳になっていた滝川一益に対して、信長が

一益よ、
大丈夫か・・・

と「気を遣った」という説もあります。

信長様、
ご配慮いただき、恐悦至極・・・

1560年の桶狭間の戦いの時には、すでに織田家の家臣であった柴田勝家と滝川一益。

この時、信長が27歳(数え年)の青年武将だったならば、

ワシは
39歳の脂が乗っている時期だ!

拙者は
36歳でバリバリだ!

「天才」とはいえ、まだ若き信長を柴田勝家たちベテランが支えて、織田家は成り立っていました。

あるいは、本能寺の変直前に武田家を討滅し、徳川家の領土の駿遠三を周遊した時のこと。

信長より6歳年上の光秀に対して、

光秀よ、
大丈夫か・・・

と「気を遣った」という話もあります。

家臣に対しては「恐怖政治」のように接していたと言われる信長。

そういう面もあったでしょうが、実際にはこのように「年配者には配慮」していたに違いないでしょう。

そうでなければ、人間社会である大名家の内部が統制できるはずがないのです。

ワシは、実力も家柄も
織田家第一!

さらに年齢も
信長様よりはるかに上で、第一!

従って、ワシが
織田家臣団で随一!

柴田勝家がこう考えたのは、当然だったでしょう。

諜報戦略重視の羽柴秀吉〜羽柴秀吉が「見習った」丹羽と柴田

織田家重臣 羽柴秀吉(歴史群像シリーズ 図説・戦国武将118 学研)

そして、勝家よりも「15歳も年下」だった羽柴秀吉。

秀吉が木下藤吉郎から改名する際には、

織田家随一の
お二人からお名前を頂戴したい・・・

と柴田勝家と丹羽長秀に「お願い」して、

柴田様から「柴」を、
丹羽様から「羽」を頂戴します・・・

そして、「+=羽柴」で羽柴秀吉と名乗ったのでした。

最初から、秀吉が大嫌いだった勝家も、

まあ、
良かろう・・・

満更でもない、悪い気持ちではなかったでしょう。

ワシを
見習いたいのか・・・

まあ、ワシは
織田家随一だからな!

秀吉が羽柴秀吉となった頃は、織田家には佐久間信盛、林秀貞(通勝)らの宿老たちがいました。

織田家重臣 佐久間信盛(Wikipedia)

彼らが「ガッチリ」織田家を固めていたのです。

そして、「戦国最強の軍事能力を有する」信長自身が先頭に立って、織田家は領土を拡大したのでした。

信玄・謙信と比較しても、「自ら先頭に立って合戦に臨む」姿勢が強かった信長。

余が
最前線で指揮する!

この天才的軍事能力を持っていた信長だからこその織田家でした。

その織田家は家臣団もまた、他家と比較しても極めて優れていました。

中でも、「織田家の武の統括者」である飛武神・柴田勝家。

合戦での
突破力は、ワシの上はいない!

「事前に情報を集める」
など・・・

猿(秀吉)あたりが
やっておれ!

あまりに優れた突破能力をもち、年長者だったからこそ見落としていた大事なことがあったのでした。

それが「諜報戦略」であり、この諜報戦略軽視の姿勢が、柴田勝家の運命を変えてしまったのでした。

新歴史紀行

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