前回は「「超短期大決戦」戦略練り続けた家康〜世代交代の大合戦「関ヶ原」・「文禄・慶長」から「関ヶ原」へ・白村江以来の「鬼門」朝鮮半島〜」の話でした。
戦国期大合戦の参加兵力の流れ:「関ヶ原」の合計兵力十七万と時代

戦国最後の大合戦となった関ヶ原の戦い。
| 年 | 勝利 | 敗北 | |
| 川中島の戦い | 1553-60 | 武田軍(約20,000名) | 上杉軍(約13,000名) |
| 姉川の戦い | 1570 | 織田・徳川軍(約30,000名) | 朝倉・浅井軍(約18,000名) |
| 三方ヶ原の戦い | 1573 | 武田軍(約30,000名) | 徳川・織田軍(約13,000名) |
| 長篠の戦い | 1575 | 織田・徳川軍(約40,000名) | 武田軍(約15,000名) |
| 賤ヶ岳の戦い | 1583 | 羽柴軍(約50,000名) | 柴田軍(約30,000名) |
| 小牧・長久手の戦い | 1584 | 徳川軍(約30,000名) | 羽柴軍(約90,000名) |
| 四国平定 | 1585 | 豊臣軍(約100,000名) | 長宗我部軍(約30,000名) |
| 九州平定 | 1586 | 豊臣軍(約200,000名) | 島津軍(約50,000名) |
| 関東平定 | 1590 | 豊臣軍(約200,000名) | 北条軍(約80,000名) |
| 関ヶ原の戦い | 1600 | 東軍(約80,000名) | 西軍(約90,000名) |
双方の参加兵力が際立って多い、戦国期の大合戦が上の表です。
上の表で、「勝利」と「敗北」に関しては、明確ではない場合もあります。
例えば、「川中島」は一般的には「双方痛み分け」ですが、長期的視野では武田勝利でした。
あるいは「小牧・長久手」は、戦術的には徳川勝利、戦略的には羽柴勝利でした。
そして、参加兵力は諸説あり、上の表は筆者の推測も含む「およその人数」です。
時代の流れに従って、参加兵力が増加する傾向が見られます。
これは当然のことかも知れませんが、戦国期はそれほど人口の増加がなかったと思われます。

武田信玄と上杉謙信が、「川中島」で争ったのは、双方が60万石程度だった時代でした。
当時の「四万石で1,000人動員」の基準から考えると、武田軍20,000名はやや過大です。
これは、信玄が「川中島」に尋常ならざる思いを抱いて臨んだ結果、「無理を重ねた」動員と考えます。
「超短期集約決戦」選択した家康:石田三成の圧倒的動員指揮能力

その後、戦国中期にかけて、動員兵力は徐々に上がってゆきました。
そして、「姉川」では、織田・徳川と朝倉・浅井の双方で、五万名近くになりました。
この「参加兵力の大規模化」は、織田家の増大が大きな理由でした。
急速な勢いで膨張した織田家は、当時200万石を優に超える経済力を持っていたと考えます。
その後、織田家の膨張が続いた後、「本能寺」勃発によって、秀吉が台頭しました。
「本能寺の変」に関する話を、上記リンクでご紹介しています。
そして、大領土を得ることになった羽柴軍(豊臣軍)の動員兵力の大きな増加が目立ちます。

豊臣秀吉戦国最後の戦いとなる、
小田原征伐には二十万名だ!
九州平定の頃から「約二十万名」という、当時の感覚では「桁違い」の動員をした秀吉。
この莫大、圧倒的兵力で、秀吉は戦国の世を終わらせました。



これで、
戦国乱世の世は終わり!
そして、秀吉が1598年に亡くなり、1600年に勃発した「関ヶ原の戦い」となります。
ここでは、それまでの最大となった「豊臣vs北条」の約二十八万名を「超える」はずでした。
なんといっても、1590年に一度は国内が平和となって10年。
その頃は戦国期と比較して、人心も一気に安定化して、国内の人口や生産力の増加が見られたはずです。
| 名称 | 年 | 日本軍(豊臣軍) | 朝鮮軍+明軍 |
| 文禄の役 | 1592-93 | 約十六万名 | 約十六万名 |
| 慶長の役 | 1597-98 | 約十四万名 | 約二十万名 |
そして、「文禄・慶長」では、上のような参加兵力(およそ、諸説あり)となりました。
「文禄・慶長」は、特に「朝鮮軍+明軍」の兵力数が、説によって大きく変わります。
いずれにしても、「小田原攻め」では二十万名動員した豊臣軍でしたが、



朝鮮攻めは
さらに人数を増やしたいが・・・



流石に、海を渡っての
戦いは、それほど人数を送れぬか・・・
なんといっても、「大勢の兵力を船で朝鮮半島に送る」必要がありました。





この三成が
輸送船団を指揮しましょう!
ここで、計算力が高く、圧倒的な政治力を持っていた石田三成が活躍した説が有力です。
それにしても、当時の船で、よくも朝鮮半島に十四万から十六万もの将兵を送ったものです。


この「海を渡っての超大動員」に対しては、



三成め、若造の割には
侮れぬ・・・
家康は「自分にはないもの」を持っている三成に対して、ある種の「畏怖感」を感じたでしょう。



豊臣を潰すには、
三成を消す必要がある・・・



だが、奴の動員戦略は、
巨大過ぎ、ワシでも敵わん・・・



逆に、大動員ではなく
短期決戦こそが望ましい・・・
そして、家康は、歴史の流れでは「超大動員」となるはずの「関ヶ原」に対して、



とにかく、日本の中央付近で
超短期決戦だ!
「超大決戦」よりも「超短期決戦」を選ぶ大戦略に出ました。


関ヶ原古戦場を歩くと、そんな家康の「超大戦略」を感じるような気持ちになります。
ぜひ、戦国ファンの方は、関ヶ原古戦場を歩いてみてください。


