前回は「草鹿龍之介回想録「一海軍士官の半生記」〜海軍の中枢歩み続けた草鹿・海兵入学時の詳細な記録と描写・従兄草鹿任一と兵学校へ〜」の話でした。

名門校・土佐海南中学からきた豪傑三名:海軍への坂本龍馬の影響

草鹿龍之介「一海軍士官の半生記」は読みやすく、草鹿の半生だけでなく、当時の雰囲気が分かります。
草鹿龍之介従兄(草鹿任一)を
そのガンルームに訪ねた・・・



従兄は喜んで、
わざわざ兵学校迄案内して呉れた・・・


後に共に帝国海軍の中核となる草鹿任一と草鹿龍之介は、従兄弟の関係でした。



私は兵学校構内の粗末なる
病室に入れられた・・・
海兵入学時に「伝染病流行地」指定だった大阪から江田島に、任一と向かった龍之介。



これ等の豪傑に較べるとと、
私の方がスマートである・・・
「豪傑」と草鹿が呼ぶ、どっしりした土佐出身の人物たちが三名既にいました。


幕末維新、そして明治となってまだ43年だった当時。
「海援隊」を創設した坂本龍馬の影響はあったと思われ、土佐の同じ海南中学から三名がやってきました。
当時、海軍兵学校は陸士と並び、一高(東大)と同程度か、それ以上の難関でした。
現在、東大一学年約3,000に合格者数トップの開成高校が150名(2025年)は、1/20です。
草鹿の同期は114名卒業で、途中脱落者がいたとして仮に120名入学とすると、120/20=6名です。
この点から考えると、「豪傑山名」を輩出した土佐海南中学は、当時名門校だったのでしょう。
几帳面な性格だった草鹿龍之介:「さっぱり聞き取れぬ」土佐弁の本音





然し彼等の土佐弁が
私にはさっぱり聞き取れぬ・・・



そこで、鈴木が
通訳を買って出た・・・
現代でも、地方弁は思い切り話されると、「他の出身者には分からない」と言われます。
現在は、メディアによって標準語がかなり流通しているため、このように「さっぱり」はないです。
草鹿の海兵入学の1910年は、廃藩置県が行われた1871年から39年でした。
江戸期までは、「藩=国家」の様であった日本の国家像。
おそらく、1910年頃は、まだまだ日本の中で地方弁が盛んであったと思われます。
自他共に認める優等生でありながら、「さっぱり聞き取れぬ」と本音を語る草鹿龍之介。
この草鹿の赤裸々な表現によって、当時の状況がよく分かります。



初めの間は皆神妙にして、
当てが晴れた食事を頂いて居たが・・・



二三日すると、
本性を発揮し出した・・・



何かうまい物を食おうではないか
といふことになり・・・



小男の中山が、裏の塀をよぢ登り、
外の様子を眺めた・・・



眺め廻はした処が
江田島である・・・



大した物のある
筈がない・・・



只一軒駄菓子屋や蜜柑を
売ってる家があった・・・



早速大声を出して、おばさんを
呼び、この蜜柑と菓子をしこたま買ひ込んで・・・



四人で
食べ始めた・・・
「豪傑三名」と徒党を組んで、四名で出かけた草鹿。



そこへ折り悪しく
海南中学の先輩である・・・



中山友次郎大尉が訪ねて来て、
この現場が見つかった・・・



お前等、何ん中ことを
しょる!



と、早速
叱られた・・・



中山大尉は中山友蔵の
親類で、兵学校の運用の教官であった・・・
「叱られた」逸話を語りながらも、人名・背景・状況を極めて細かく描写する草鹿。
記憶力が良いことを同時に、草鹿がとても几帳面な性格だったことを表しています。
「叱られた」ことを日記、回想録などに記載する陸海軍将校は、一定数いますが少数派です。
多くは、当時の陸海軍や社会情勢を語りながら、自らの体験を綴ることが多い回想録。
現在の高校2年生〜大学2年生くらいの若者であり、極めて優秀な人物が集まった海軍兵学校。
そして、若者らしいヤンチャらしさも、きちんと持っていた海兵の生徒たち。
その海兵の学生の雰囲気が、ヒシヒシと伝わってくる良い記述と考えます。

