「家康が宿泊した邸宅」と「接していた」フロイス達の修道院〜大いに憂えた司祭たち・光秀「大成功を収めたので共に歓喜を」〜|本能寺の変15・ルイス・フロイス「日本史」31

前回は「明智「イエズス会に悪意」記録したフロイス〜京市民「明智は掠奪と放火をするのではないか」・残忍な明智像・征夷大将軍の足利義昭〜」の話でした。

目次

光秀「大成功を収めたので共に歓喜を」:大いに憂えた司祭たち

New Historical Voyage
ルイス・フロイス「回想の織田信長」(新歴史紀行)

戦国時代の日本を、多角的に、極めて広範囲に描いたルイス・フロイス「日本史」。

「本能寺」に関しても、極めて精緻な描写をしています。

Frois

明智は悪魔とその偶像の大いなる友であり、
我らに対しては、至って冷淡であるばかりか、

Frois

悪意をさえ抱いており、デウスのことについて、
何の愛情も有しないことが判明していたから、

Frois

今後どのようになるか、まったく検討が
つかなかったからである。

「本能寺」当時、京都の教会にいたフロイスたちは、戦々恐々としました。

そして、イエズス会の保護者・信長を突然抹殺した明智光秀を恐れました。

Frois

それに司祭たちは、信長の庇護や援助が
あってこそ、今日あるを得たのであるから、

Frois

彼が放火を命じはしないか、また教会の道具には
(素晴らしい品があるという)評判から、

Frois

兵士たちをして、教会を襲撃させる
十分ないしがありはしまいか、と、

Frois

司祭たちの憂いは実に
大きかった。

フロイス達の視点から見れば、「イエズス会庇護者」織田信長を抹殺した明智光秀。

その明智光秀が、「自分たちを優遇する」とは到底考えられなかった、のは当然でした。

Frois

だが、明智は、都の全ての街路に
布告し、人々に対し、

明智光秀

市街を焼くようなことはせぬから、
何も心配することはない。

明智光秀

むしろ、自分の業が大成功を収めたので、
共に歓喜してくれるように。

Frois

と呼びかけた。
そして、

明智光秀

もしも、兵士の中に、市民に対して
暴行を加えたり不正を働く者があれば、

明智光秀

直ちに
殺害するように!

Frois

と命じたので、
以上の恐怖心からようやく元気を回復するを得た。

大混乱に陥った、フロイスらのイエズス会の宣教師達。

「本能寺」に続いて、明智軍が、当時の首都である「京都を殲滅する」かのような恐怖を抱きました。

これに対して、明智光秀は「事態沈静化」に乗り出しました。

これは後世の視点から見れば「当然のこと」でした。

その一方で、フロイスら当事者達が大いなる恐怖を抱いたのは当然でした。

明智光秀

とにかく京の都は
沈静化せねば・・・

とにかく、大荒れとなった京都を、明智軍は何とか鎮めたようです。

とは言っても、「帝王+覇王・信長」が突然消された事態に対し、

当時の京市民S

これから、京都や周辺は
どうなるのだろう・・・

京都市民達は、絶大な恐怖を感じていたでしょう。

「家康が宿泊した邸宅」と「接していた」フロイス達の修道院

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京都(新歴史紀行)

応仁の乱で、荒れ果てて、焼け尽くされた京都。

その後、1568年頃から、信長の力により、京都は一気に復興に向かって15年ほど経過しました。

そして1582年、京都市民たちが希望に燃えていた頃に、突如勃発した「本能寺」。

Frois

我らの主なるデウスは、都の教会と、
当時、同所に住んでいた我らを憐れみ給い、

Frois

ほんの数日前に三河の国守(家康)が
堺に出発するよう取り計らわれた。

Frois

彼は信長の義弟であったから、
明智は必ず彼を殺すために、

Frois

(彼もまた、殺戮された者の一人となったであろう)、
彼が宿泊していた邸と接していた、

Frois

我らの教会に放火せねばならなかった
であろうし、

Frois

あるいは、我らの修道院は、
より堅固であったから、

Frois

彼はここに逃避して
きたかもしれない。

Frois

いずれにせよ、彼が同所に留まって
いたならば、

Frois

我らは危険から免れ
得なかったことであろう。

ここで、フロイスは重大な事実を記録に残しました。

それは、当時の京都において「家康が宿泊した邸宅」とフロイスらの修道院が「接していた」事です。

当時の京都の雰囲気・状況は、「洛中洛外図屏風」などに記録が残っています。

その一方で、詳しい地図などは残ってなく、詳細は不明です。

そもそも、戦国時代は「地図」が曖昧な状況であり、地図は「絵図」のようなものでした。

おそらく、家康が宿泊していた邸宅と本能寺は近かったはずで、相応の屋敷だったはずです。

京都の中心部にあったと思われる「家康が宿泊した屋敷」。

そして、それに「接していた」フロイスらの修道院。

つまり、フロイスらの修道院もまた、「京都の中心部にあった」ことになります。

織田信長

フロイス達の
修道院は、京の中央につくってやれ。

つまり、当時の「超一等地」にあったのがフロイスたちの修道院でした。

それほど、フロイスらを優遇していた織田信長。

はるばる海を渡って当時の日本にやってきたイエズス会のフロイスたち。

新歴史紀行
戦国大名 大友宗麟(Wikipedia)

フロイス達は、大友宗麟などの諸大名から歓待されました。

これらの「大友宗麟の動向」もまた、フロイス「日本史」には詳細に記録されています。

当時の首都であった京都で、フロイス達を大歓待していた「大覇王」信長。

明智光秀

信長を
討つのだ!

明智光秀

市街を焼くようなことはせぬから、
何も心配することはない。

その「女神のような大覇王」信長を、突然打ち果たしてしまった明智光秀。

光秀は、フロイスにとって「大悪魔」以外の何者でもありませんでした。

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