前回は「大規模かつ基本的な信長の美濃攻略戦・「偽装+挟撃」で一気に制圧・抜群だったイエズス会の情報収集能力・緻密な勢力図の把握〜」の話でした。
30代前半で「戦の達人」に到達した信長:難なく稲葉山城攻略

Frois(信長は)直ちに美濃の主城へ
突進し・・・



かくて全ては難なく
信長に帰伏した・・・
斎藤家の旗印を偽装工作し、兵力の集中によって、稲葉山城を陥落させた織田信長。


ルイス・フロイス「日本史」には、稲葉山城攻防戦を、簡潔に、ありありと記載しています。
「全ては難なく」という表現は、興味深いです。
典型的な山城である稲葉山城は、包囲して兵糧攻めや水の手を断つのが常套手段でした。
被害も少ない、この兵糧攻めは、猛烈な時間がかかるのが大きな欠点でした。
さらに、背後から、城側の援軍が後詰として来襲すると、かなり危険でした。



よしっ!
稲葉山城へ突き進め!
それに対して、一気に稲葉山城を攻略した信長。
| 名前 | 生年 |
| 毛利元就 | 1497年 |
| 北条氏康 | 1515年 |
| 今川義元 | 1519年 |
| 武田信玄 | 1521年 |
| 長尾景虎(上杉謙信) | 1530年 |
| 織田信長 | 1534年 |
| 島津義弘 | 1535年 |
| 羽柴(豊臣)秀吉 | 1537年 |
| 徳川家康 | 1543年 |
稲葉山城陥落の1567年は、信長はまだ34歳(数え年)で若手でした。
それにも関わらず、「大策略+兵力の集中」によって、あっさり稲葉山城を落とした信長。
この事実は、織田信長が34歳という30代前半にして、すでに「戦の達人」であったことを示しています。
「追放人たちの避難所」だった「圧倒的自治都市」堺





こうして彼は美濃国を
獲得したのである・・・



ところが、美濃国主は
非常に苦労して・・・



騎馬で従った僅かな貴人とともに脱出し、
都に逃れ、同所も安全でないと見て・・・



日本の全ての追放人にとって
避難所である堺に赴いた・・・
ここで、フロイスは、美濃王であった斎藤龍興が脱出して、堺に向かった事実を書いています。
斎藤龍興が脱出し、その後も「反信長陣営」で戦った事実は有名ですが、一度、堺に向かいました。
ここで面白いのは「日本の全ての追放人にとって避難所=堺」という表現です。
この頃、九州に多数の貿易・交易港があり、明らかに「西に向かって開いた」国家像だった日本。


そして、当時の首都であった京・山城すぐ近くの堺は、商人による自治都市でした。
その一方で、「追放人の避難所」と南蛮人であるフロイスに表現された堺。
つまり、フロイスらの視点から見れば、それほど堺が「圧倒的自治が確立」していたことを示しています。
稲葉山城攻略の翌年、1568年、信長は足利義昭を奉じて、京都に乗り込みました。
「足利家」という大権威を活用した信長の話を、上記リンクでご紹介しています。
その後、さらに堺に目をつけて、堺に多額の金銭を要求して事実上制圧した信長。
フロイスが「追放人の避難所」と呼ぶほど、様々な内外の人物がいた堺は、日本ただ一つの都市でした。


当時の堺は、南蛮図屏風のような都市であったと推測されます。
海外からも多数の人物が来日し、困ったら、お金さえあれば多くの人が向かった堺。
このフロイスの「追放人の避難所」という記述は、当時の堺の性格を知るには、うってつけの表現です。
「避難所」というのは、ややネガティブな表現ですが、ある意味で「解放区」であります。
場合によっては、当時の日本の「ただ一つの天国」だった堺。
堺という都市の圧倒的迫力と魅力を、フロイスはたった一言でまとめました。
独特であり、簡潔で、極めて興味深い言葉、で。


