真田幸綱の「華麗な調略術」と砥石城奪取〜「謀略の神」信玄の始まり・武田と上杉の総力戦「川中島」・調略を重視した若き昌幸〜|真田昌幸4・人物像・エピソード

前回は「「最高の軍略学校」で軍略磨いた真田昌幸〜晴信近習と軍議参加・「ザ・山国」信濃で磨いた真田の調略・日本で最も平均標高が高い信濃〜」の話でした。

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戦国大名 真田昌幸(Wikipedia)
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真田幸綱の「華麗な調略術」と砥石城奪取:「謀略の神」信玄の始まり

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戦国大名 武田晴信(信玄)(歴史群像シリーズ 図説・戦国武将118 学研)
真田昌幸

真田家は
お兄さんたちがいるから・・・

真田昌幸

三男の拙者は、
武田晴信様の元へゆくことになりました。

1547年生まれの真田昌幸は、「人質」として武田家に向かいました。

事実上、武田家に従属する形式となった真田家の「武田への忠誠」の証でした。

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真田三代:上から反時計回りに、真田幸綱(幸隆)、真田昌幸、真田信繁(幸村)(Wikipedia)

信濃の動乱期に、村上義清らに押されて、古来からの領土であった真田庄を追われた真田幸綱(幸隆)。

真田幸綱

村上の砥石城を
調略で奪取した!

一時は、上野の長野業正のもとにいた説が有力である真田幸綱は、華麗に舞い戻ってきました。

「知略と武略で天下一」という評価されることが多い真田幸綱以降の幸綱・昌幸・幸村の真田三代。

その「真田三代の物語」は、真田幸綱から始まりました。

ここで、「砥石上落城」に関しては、謎が多く、はっきりした事実は不明です。

そもそも、「調略」とは様々あり、「城主を寝返らせる」や「城内を内部崩壊させる」など様々です。

「どう砥石城を調略したか」が、ほとんど不明である真田幸綱。

真田幸綱

晴信様から
多額の資金を頂戴した!

真田幸綱

そして、武田軍を
お借りした・・・

おそらく武田家から多額の軍資金が渡り、一定数の兵も借りたと思われます。

武田晴信

砥石城を調略して、
落城させたか!

武田晴信

真田幸綱よ、
大義であった!

武田晴信

多額の軍資金がかかったが、
全然問題なし!

村上義清との戦いで大惨敗した「砥石崩れ」で、1,000名以上の戦死者を出したと言われる武田家。

多数の死者と比較すれば、「調略にかかる多額の軍資金」は大したことがないことでした。

年を重ねて「謀略の神」のような存在となる武田信玄ですが、若い頃は「とにかく力技」が目立ちます。

武田晴信

調略、というのは
実に面白いのう・・・

信玄が「謀略の神」となるのは、真田幸綱の「華麗な調略術」が始まりかもしれません。

武田と上杉の総力戦「川中島」:調略を重視した若き昌幸

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武田四天王:左上から時計回りに山県昌景、春日虎綱(高坂昌信)、内藤昌豊、馬場信春(Wikipedia)

昌幸が信玄のもとに向かった1560年頃は、武田家が急膨張していた頃でした。

名前生年
真田幸綱1513年
山県(飯富)昌景1515年
馬場信春1515年
武田晴信(信玄)1521年
内藤昌豊1522年
春日虎綱(高坂昌信)1527年
真田昌幸1547年
武田信玄及び重臣と真田幸綱・昌幸の生年

名将がキラ星の如く、多数いた武田家。

おそらく、1560年頃の諸大名の家臣団の優秀さや層の厚さでは、武田家は抜群だったでしょう。

昌幸が向かった頃、武田家は上杉家と「川中島」の真っ最中でした。

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越甲川中島激闘図(歴史群像シリーズ8 上杉謙信 学研)

狭い川中島で、五度に渡る合戦を繰り広げた、武田と上杉の両軍。

川中島第N次の戦い
11553
21555
31557
41561
51564
川中島の戦い年表

五度の戦いのうちには、「睨み合って終わり」もありました。

ちょうど昌幸が、晴信の近習となった1560年頃までには、三度の「川中島」がありました。

この時点で7年もの長き時間にわたり、戦い続けた武田晴信。

武田晴信

川中島は
どうしても奪取したい・・・

「川中島」の戦いが起こる理由は、どこから見ても「武田家が仕掛けた」ものでした。

当時、長尾景虎という名前であった上杉謙信は、村上義清から頼られたこともあり、

長尾景虎

私が
晴信に鉄槌を下す!

「義を好む」景虎にとって、晴信は「近隣の秩序を乱す」存在でしかありませんでした。

さらに、川中島は「信濃と越後の国境付近」であり、

長尾景虎

川中島は、
我が本拠地・春日山城のすぐ近く!

長尾景虎

こんなところを
晴信に押さえられては、たまらん!

景虎側の視点から見れば、どう考えても「川中島」は防衛戦でした。

晴信(信玄)が、どうしても欲しかった川中島に関する話を、上記リンクでご紹介しています。

この頃、川中島で奮闘していた晴信を横目に見ていた昌幸は、

真田昌幸

父のように調略で
上手くいかないだろうか・・・

「調略によって、有利にする軍略」を考えていたでしょう。

1553年から始まった「川中島」は、消耗戦のような状況になっていました。

本来であれば、このあたりで「諦める」のが賢明でしたが、

武田晴信

なんとしても、
川中島を攻略したい!

晴信の「川中島奪取」の思いは、強まるばかりでした。

真田昌幸

景虎が川中島に
出てこないように、出来ないか・・・

武田家と上杉家の総力戦となっている「川中島」。

これは、当時の諸大名の戦いをみても、「超異例のこと」でした。

双方の当主自身が大軍を引き連れて、何度も同じ地で戦うことは、他では見られない現象でした。

どうしても、川中島を奪取したい晴信にとって、

武田晴信

景虎さえ
出てこなければ・・・

景虎本人ではなく、上杉家の有力武将であれば、なんとか勝てそうです。

真田昌幸

景虎の目線を
他に向けられないか・・・

ここで、昌幸は「調略によって景虎の目線を他へ移す」ことを考え続けていました。

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