前回は「「福岡」の名付け親である黒田孝高〜姫路城を拠点としていた黒田・「二兵衛」の官兵衛と半兵衛の類似性・侵攻先の一角と知恵者〜」の話でした。

秩序乱れた戦国における家柄:白亜の美しい姫路城

現代「白鷺城」とも呼ばれ、白亜の美しい姿を見せている姫路城。
・姫路城(兵庫県姫路市)
・彦根城(滋賀県彦根市)
・犬山城(愛知県犬山市)
・松江城(島根県松江市)
・松本城(長野県松本市)
・丸亀城(香川県丸亀市)
・丸岡城(福井県坂井市)
・宇和島城(愛媛県宇和島市)
・備中松山城(岡山県高梁市)
・高知城(高知県高知市)
・弘前城(青森県弘前市)
・松山城(愛媛県松山市)
日本に残っている城の多くは復元であり、貴重な現存十二天守の一つであり国宝でもある姫路城。
多くの日本人にとって、「城といえば姫路城」です。
現代の姫路城は、池田家が姫路を治めた後に築城した城であり、元は小さな砦程度でした。

姫路城は
我が黒田の拠点なのだ!
名前 | 生年 |
羽柴秀吉 | 1537 |
竹中重治(半兵衛) | 1544 |
黒田孝高(官兵衛) | 1546 |
後に、竹中半兵衛と共に「二兵衛」と並び称される黒田官兵衛は「軍師筆頭格」です。
下剋上と呼ばれる戦国時代は、「秩序が乱れに乱れた時代」でした。
守護・守護代・国衆(地侍)出身 | 大名 |
守護 | 武田家・大友家・島津家・今川家・大内家 |
守護代 | 長尾家(上杉家)・朝倉家・尼子家・三好家 |
国衆(地侍) | 織田家・徳川家・毛利家・北条家・伊達家・(豊臣家) |
秩序が乱れた時代においても、権威はまだまだ残存していた時代でした。
戦国大名として巨大化した大名の中でも、武田・大友・島津・今川は守護出身です。
上杉謙信は、関東管領上杉家を継ぐ前は守護代の長尾家の家柄で、相応に高い家柄でした。


最終的に、天下を治めた織田家・徳川家は国衆・土豪レベルであったのが大きな特徴です。
さらに、羽柴(豊臣)秀吉に至っては、「織田家の足軽」や農民など諸説ありますが、



家柄がなんだ、
というのだ?



この秀吉は、
類まれな能力と努力でのし上がったのだ!
いずれにしても、「国家のトップ」から見れば「底辺に近い出自」でありました。
商人出身武家からのし上がった黒田孝高:新旧勢力が拮抗した播磨


そして、黒田孝高が初期に活躍した姫路周辺は、初期は三好が猛烈な勢いでした。





この三好長慶が
足利家に取って代わるのだ!
戦国初期に猛烈な勢いで勢力を伸ばした三好家。
三好家は、超名門であった細川京兆家の重臣でした。
山城・摂津・丹波・讃岐・土佐の五カ国の守護を兼ねた細川京兆家晴元が、三好長慶の主人でした。


現代と異なり、「京・山城中心」の国家像であり、「京・山城中心」は天皇がいる首都でした。
さらに、摂津や丹波は、山城を取り巻く重要な国であり、讃岐は摂津と瀬戸内海を囲む国でした。
細川家が土佐の守護を兼ねていた事実は、土佐が広い太平洋に面していたことがポイントと思われます。
この意味では、今川家や武田家よりもはるかに家柄が高かったのが細川京兆家でした。



まずは、細川家を
叩き潰して、周囲の国々を三好の支配下に!
とは言っても、三好長慶は「細川の重臣」にすぎず、家柄としては、守護代でもありませんでした。
その中、持ち前の能力と兄弟の協力を得て、猛烈な勢いでのし上がった三好長慶。
「信長以前の天下人」と言われ、最盛期には、240万石ほどの領土を有していました。
単に「240万石」だけでも超強力な大名ですが、



堺などの
貿易港も抑えているのだ!
三好家の場合は、摂津・堺など海を抑えていたことが重要でした。
この意味では、まさに後の織田家を彷彿とさせた存在が三好家でした。



我が姫路のある
播磨すぐ近くには強力な三好家・・・
1546年生まれで、物心ついた頃には「三好の天下」であった黒田孝高。
もともと目薬を販売していた商人からのし上がった武家であった黒田家にとって、



我が主人小寺家は
弱小大名・・・



我が小寺家が
覇を唱えるのは不可能・・・



どこかの大勢力に
つかなければ・・・
そして、西の毛利がジワジワと勢力を伸ばす中、播磨は「西の毛利と東の三好に挟まれる」位置でした。





この毛利家は守護でも
守護代でもないが・・・



ワシ一代で
大幅に勢力を拡張したのだ!
毛利もまた、国衆・土豪レベルでした。
名前 | 生年 |
毛利元就 | 1497年 |
北条氏康 | 1515年 |
今川義元 | 1519年 |
武田信玄 | 1521年 |
長尾景虎(上杉謙信) | 1530年 |
織田信長 | 1534年 |
島津義弘 | 1535年 |
羽柴秀吉 | 1537年 |
徳川家康 | 1543年 |
とは言っても、1497年生まれの毛利元就は、黒田孝高が生まれた頃にすでに50歳(数え年)でした。
この意味では、毛利家は「名門ではないが、すでに確立した勢力」でした。
そして、播磨周辺には、旧勢力も多数残存しており、赤松家・山名家などがまだまだ残っていました。



赤松や山名は名門だが、
どうにもピリッとしない・・・



やはり、新たな時代には
むしろ守護や守護代でない勢力が勝つのでは・・・
後に、「家柄が低い」ものの猛烈な勢いであった織田家に着目した黒田孝高。
その「新興勢力こそ新たな時代の勝者」という考え方は、若い頃に養われたと考えます。