前回は「「長州ファイブ」井上馨の心意気とプライド〜頭脳派官僚集団「伊藤軍団」の誕生・「長州軍団幹事長」伊藤俊輔・「内閣分離」阻んだ江華島事件〜」の話でした。
久坂も高杉も大村も消えた長州:明治政府の認識「薩摩の江華島事件」

1875年、朝鮮とのトラブルに発展した江華島事件。
「事件」と言う名前ですが、「江華島事変」に近い状況でした。
日本の軍艦・雲揚号が、朝鮮付近を測量中に、朝鮮と戦闘となった事件でした。
日本側戦死1名、朝鮮側戦死35名となり、朝鮮側に大損害を与えた事件でした。
双方で36名もの戦死者が出る、大事件となり、日本側も調停に苦労しました。
薩摩の黒田清隆を正使、長州の井上馨を副使として、朝鮮に派遣しようとした伊藤博文でした。

井上馨副使なんか
嫌だ。
| 名前 | 生年 | 所属 |
| 岩倉 具視 | 1825 | 公家 |
| 西郷 隆盛 | 1827 | 薩摩 |
| 大久保 利通 | 1830 | 薩摩 |
| 木戸 孝允 | 1833 | 長州 |
| 井上 馨 | 1836 | 長州 |
| 板垣 退助 | 1837 | 土佐 |
| 山縣 有朋 | 1838 | 長州 |
| 黒田 清隆 | 1840 | 薩摩 |
| 伊藤 博文(俊輔) | 1841 | 長州 |
プライドが高かった井上馨は、「4歳年下」の黒田清隆の下の副使案を蹴り続けました。



それに木戸さんとの
約束もある!



これは、もはや木戸さんと
直接ケリをつけるしかない・・・
幕末維新の十代から、「いつも一緒に行動」してきた伊藤博文と井上馨。
長州の機密にも関わり続け、伊藤博文と井上馨しか知らないことも多数あったでしょう。
いわば「莫逆の友」であり続けた伊藤博文と井上馨。
だからこそ、井上馨は、「年下の黒田清隆の下風」を堂々と拒否し続けたのでした。
ならば、井上馨を正使として、黒田清隆を副使として「正副を変更」案も考えられました。
ところが、江華島事件の最高責任者は、薩摩出身の井上良馨でした。
そのため、「薩摩の問題は薩摩が片付けるべき」という観念が支配していた明治政府。
いわば、「明治政府の体制」が表出した事件でした。



今まで、貴君に何と言っていたか知らぬが、
私はぜひ勧めてやります。



分かった。
君の思う通りにするが良い。



ようやく公の同意を得て、
それからだんだんと井上を説いた。



ついに井上は副使となって朝鮮に行き、
江華島事件も結末をつけて帰ったが、



一時は、
なかなか面倒であった。
とにかく、若き頃は柔軟性抜群だった木戸孝允は、病気のため極めて頑固になっていました。
木戸の病気は、幕末維新期に「無理をし続けた」のが根幹であると考えます。


幕末、久坂玄瑞は禁門の変で自決、高杉晋作は病死しました。
そして、明治初期には大村益次郎が暗殺され、次々と周囲から人がいなくなっていた木戸。



久坂も高杉も
大村もいなくなってしまった・・・



・・・・・
この頃、43歳(数え年)であった若き木戸。
ところが、この頃の木戸は、どうにも疲労感や虚無感に支配され続けていたようです。
西南戦争の運命決した「神風連の乱」:消えた薩摩巨頭・種田政明長官





それから、明治九年に
奥州御巡幸となった。



その時、木戸公は参議をやめて
内閣顧問となった。



岩倉公と木戸公とは、
御供となったが、



大久保公は内務卿で、
御先供ということであった。



大久保公は内務卿で、
御先供ということであった。
江華島事件を何とか片付けた明治政府は、明治九年(1876年)に明治天皇の御巡幸を実行しました。
後世の視点から考えれば、「西南戦争の前年」でしたが、小康状態だった明治政府。



一体、木戸公は三条公の方に
心服をしておられた。



この奥羽御巡幸の御供の途中でも、
種々話合われて、益々双方の諒解を深めるようになった。



それから、聖上には青森から御船に召されて
御巡幸になって、



北海道・秋田県だけ残して、
御還幸あらせられた。
明治維新となり、明治天皇は、ほぼ日本全国を巡幸しました。
この「国家のトップが様々な場所へ向かう」ことは、徳川幕府時代には全くなかったことでした。
こうして、明治政府は「徳川から明治の時代」の理解を、大日本帝国国民(臣民)に広めました。



それで、この御巡幸にならなかった地方だけ、
更に巡回しろ、という御沙汰で、



三条公と山縣と予と寺島が
行った。



これには、陸奥田の尾崎三郎だのも
随行していた。



それで、北海道を巡回して
帰途、福島に泊まっていると、



熊本(神風連)騒動の
電報に接した。


明治9年から10年に続いた明治政府への反乱の口火を切った「神風連の乱」が1976年10月勃発しました。
「伊藤公実記」においては、「神風連」に対しては、「起きた事実」のみ記録しています。
熊本の敬神党が約170名ほどで決起し、一時は熊本鎮台を占領した「神風連の乱」。


「神風連」では、乱を聞きつけた児玉源太郎少佐らが駆けつけて、一気に一日で鎮定しました。
翌年、西南戦争では、西郷軍と死闘を続けた熊本鎮台と児玉源太郎。





う、
うぐっ・・・
極めて短期間に鎮定された「神風連」でしたが、種田政明 熊本鎮台司令長官は殺害されました。
いかに、明治六年の政変によって「薩摩系軍人がゴッゾリ消えた」としても、熊本鎮台長官となった種田は、



種田か・・・
奴ならば鎮台長官として適任だろう・・・
相応の能力を政府から認められていたのでしょう。
薩摩出身の陸軍軍人であり、桐野利秋、篠原国幹らと同等の立場だった種田政明。
いわば、「薩摩軍閥の巨頭の一人」だったのが、種田政明でした。
| 名前 | 生年 |
| 大山 綱良 | 1825 |
| 西郷 隆盛 | 1828 |
| 大久保 利通 | 1830 |
| 村田 新八 | 1836 |
| 篠原 国幹 | 1837 |
| 種田 政明 | 1838 |
| 桐野 利秋 | 1839 |
| 西郷 従道 | 1842 |
| 大山 巌 | 1842 |
| 別府 晋介 | 1847 |
この時「政府側」だった種田は、「西郷と共に下野しなかった」人物でしたが、当時の西郷の威風は圧倒的でした。
もし、種田が「神風連」で殺害されず、西南戦争の時も続けて熊本鎮台司令長官だったら。



明治政府に
尋問の議あり!



西郷先生が、
政府に尋問、だと・・・



西郷先生と
戦うわけには・・・



薩摩人として、
とてもそんなことは、出来ぬ・・・
西南戦争の歴史、そして大日本帝国の歴史は、変わったかもしれません。
乱としては小規模だった「神風連」は、確かに、日本の歴史を大きく変えたのでした。

