前回は「伊藤博文の「法律懐刀」井上毅の登場〜一気に設立した元老院と大審院・「内閣分離論」に冷や水浴びせた江華島事件・島津久光と板垣退助辞任〜」の話でした。
頭脳派官僚集団「伊藤軍団」の誕生:「内閣分離」阻んだ江華島事件

大阪会議で、木戸孝允・大久保利通・板垣退助らの巨頭が仲直りした1875年。
一、元老院設立
二、大審院設立
三、地方官会議設立
四、内閣分離:輔翼と行政
この「仲直り」において、伊藤博文が起案した上の四つの案が、約束され、
木戸孝允確かに、この改革を進めることを
約束するならば、私は政府に戻ろう!
現代の日本の政界ならば、こういう時の約束を、簡単に反故にしますが、



せっかく、木戸さんが
戻ってきてくれたから、絶対に改革するのだ!
若き伊藤博文は、大改革をガンガン進めました。





私が文章を起草して、
力になりましょう!
実は、この大改革推進は、伊藤博文にとって大きなメリットがありました。
元老院・大審院という大きな組織を設立するにあたり、伊藤の周囲には大勢の優れた人物が集まりました。
井上毅のような優れた実務は官僚が大勢、伊藤の周りに集まり、



彼らのような実務派が
多数いれば、大きな改革が進められる!



今後、憲法を作るときなどに、
彼らの存在は極めて貴重だ!
若き伊藤博文は、このように「伊藤軍団」の結集に大いなる強みを感じたでしょう。
ところが、伊藤が順調に元老院、大審院の設立を実施し、内閣分離を進めていたところ、大事件が勃発しました。


大事件、とは、江華島事件でした。
江華島事件は、日本の軍艦・雲揚号が、朝鮮付近を測量中に、朝鮮と戦闘となった事件でした。
この事件では、日本側戦死1名、朝鮮側戦死35名となり、朝鮮側に大損害を与えた事件でした。


江華島事件に関して、伊藤博文は「伊藤公直話」で、詳細に語っています。



そこで、木戸公は病中で引き篭もっていたが、
朝鮮に使節を遣らなければならぬ。



黒田を遣ろう、そうして井上を副使として
付けよう、こういうことに決まると、予は井上に、



今度、朝鮮の使節に黒田を
遣ることになった。



ついては、君が副使となって
行ったらよかろう。



朝鮮事件の如きは、今日の場合
問うに足らず、



打っちゃっておいたが
良いだろう。



という意見を主張し、木戸公とも
論じた位だから、大不承知で、



まあ、考えても
みたまえ。



そんな馬鹿馬鹿しい事が
出来るものではない。



自分の従来の立場といい、
どうして副使として出かけることが出来るものか。



と言う。
「長州ファイブ」井上馨の心意気とプライド:「長州軍団幹事長」伊藤俊輔


当時の日本の大きな危機にある状況であったにも関わらず、



俺は副使なんかでは、
出掛けられん!
伊藤博文に対して、「副使なんか嫌だ」を貫き続けた井上馨。
若い頃から、伊藤博文とは「莫逆の友」であったのが井上馨でした。


伊藤俊輔(博文)、井上聞多(馨)、遠藤謹助、山尾庸三、野村弥吉(井上勝)
幕末維新の風雲が荒れ始めていた1863年、井上馨は伊藤博文と共に大英帝国へ留学しました。


ところが、その直後に下関(馬関)戦争が勃発して、伊藤博文と井上馨の二人は急遽帰国しました。
山尾庸三らの他の三名は大英帝国に残り、学問を修めてました。
それにたいして、「一気に帰国に踏み切った」伊藤と井上は、さすがに「バリバリの政治家」でした。
そして、この下関(馬関)戦争への対応が、伊藤らバリバリ政治家と、山尾ら実務的政治家の道を分けました。
とにかく、「いつも一緒」だった伊藤博文と井上馨。
このような「気安すぎる仲」だからこそ、井上は本心をさらして、伊藤と語ることが出来たのでした。



そこで、
予は、



もっともの事だが、
それは長州人の短所だ。



国家のためには、そんな私憤を投げ打って、
大任に当たらなければ困る。



ぜひ、行く決心を
持ってくれ。



と言ったが、どうしても不承知、
だんだん説いた結果、



まあ考えさせてくれ。
木戸君に対しても困る。



と言うから、
木戸公に会って、



今度の事変については、黒田一人ではいかぬから、
井上を副使として遣ろうと思う。



貴君、どうか御同意を
願いたい。



俺は病気ではあるが、
今すぐ死ぬという訳でもあるまいから、



もう少し待ったら
よかろう。



そう仰るが、
時機を失ってはいけませぬ。



井上が、人間の皮を被っているならば、
前にあれだけの意見を主張しながら、



よもや行くとは
いえまい。
この頃、木戸孝允は病気もあり、この頃はかなり頑固になっていました。
幕末維新時には、「悪魔の薩摩と同盟」という薩長同盟に踏み切った「柔軟自在」だった木戸。
ところが、この頃の木戸は、柔軟性が極めて乏しい人物となっていました。



それは井上も行くとは言わぬだろうが、
井上がもし、この事を避けるようでは、



国家の重きを以て任ずるものではないから、
私はぜひ叩きつけます。



今まで、貴君に何と言っていたか知らぬが、
私はぜひ勧めてやります。



・・・・・
木戸にとって、幕末の若き頃からずっと弟分であり、明確な「政治の弟子」であった伊藤博文。
幕末の頃であれば、「木戸に反論」は考えられなかった伊藤博文。
| 名前 | 生年 | 所属 |
| 岩倉 具視 | 1825 | 公家 |
| 西郷 隆盛 | 1827 | 薩摩 |
| 大久保 利通 | 1830 | 薩摩 |
| 木戸 孝允 | 1833 | 長州 |
| 井上 馨 | 1836 | 長州 |
| 板垣 退助 | 1837 | 土佐 |
| 山縣 有朋 | 1838 | 長州 |
| 黒田 清隆 | 1840 | 薩摩 |
| 伊藤 博文(俊輔) | 1841 | 長州 |
木戸孝允の8歳年下であった伊藤博文は、「木戸に頭が上がらない」立場であり続けました。
ところが、



分かった。
君の思う通りにするが良い。
ついには、木戸は折れて、伊藤博文の進言通りとなりました。



木戸さんが、
やっと納得してくれた・・・
木戸が、明確な総帥だった当時の長州。
その一方、内実は「伊藤が全て動かす」状況にありました。
いわば、「長州軍団幹事長」だったのが、この頃の伊藤博文でした。
そして、伊藤は着実に影響力を強めてゆきました。

