「政治的挫折ゼロ」木戸孝允の初大挫折〜「条約交渉成果なし」使節団・使節団から離脱した木戸・吹き荒れた「征韓論争」の嵐と政変の兆し〜|伊藤公直話19・エピソード

前回は「若手の動きに激怒した木戸孝允〜大隈「木戸と大久保は早期帰朝を」・「品川弥二郎の調停」却下した伊藤博文・ギクシャクした岩倉使節団〜」の話でした。

目次

「政治的挫折ゼロ」木戸孝允の初大挫折:「条約交渉成果なし」使節団

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小松綠「伊藤公直話」(新歴史紀行)

「伊藤博文しか知らないこと」が多数記載されている「伊藤公直話」。

新歴史紀行
参議 木戸孝允(国立国会図書館)
木戸孝允

とかく二、三の若者が
言い合せて・・・

木戸孝允

自分達の進退を
議する様子がある。

幕末まで、超一流の政治家として、薩長官軍を牽引し続けた木戸孝允。

異様なまでの政治力を発揮し、まさに「薩長の表の顔」だったのが木戸孝允でした。

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岩倉使節団(Wikipedia)

ところが、岩倉使節団のNo.2格として、米国などに乗り込んだものの、明らかに大失敗になりました。

それまでに多数の挫折を繰り返してきた木戸。

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禁門の変(Wikipedia)

禁門の変の際には、久坂玄瑞の説得に失敗し、木戸自身も「死と背中合わせ」となりました。

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明治維新の薩長大幹部:左上から時計回りに木戸孝允、西郷隆盛、大久保利通、大村益次郎(国立国会図書館)

その後、事実上「壊滅寸前」まで追い込まれた長州藩を、なんとか引っ張り続けた木戸。

当時、桂小五郎と名乗っていた若者だった木戸にとって、「悪魔」だった薩摩と手を結びました。

この「薩長同盟」に関しては、比較的あっさり語られることが多いです。

その一方で、「長州藩と長州の民衆」の未来を決定づけた木戸の政治力は、極めて偉大なものでした。

挫折が多かった木戸ですが、多くの挫折は「木戸の外部・周囲に起因したもの」でした。

つまり、大政治家であった木戸孝允にとって、「政治的挫折」は、ほぼなかったのでした。

岩倉使節団の目的

1.江戸時代に締結した(させられた)不平等条約改正の予備交渉

2.条約締結中の先進国の国家元首に国書を提出

3.西洋の先進文明の実地調査

岩倉使節団の目的は、上の3つでした。

中でも、1の「不平等条約改正の予備交渉」が最重要であり、それに2の「国書提出」が続きました。

後世の視点では、3の「西洋の先進文明の実地調査」が目的と語られることが多い岩倉使節団。

ところが、これは「不平等条約改正の予備交渉」が、事実上「成果ゼロ」となったのが理由です。

木戸孝允

「成果ゼロ」は、
かつてなかった・・・

大政治家・木戸孝允にとって、自ら関わる政治案件で「成果ゼロ」は初体験でした。

このこともあり、大いにプライドが傷ついた木戸は 異様なまで不機嫌になっていたのでした。

使節団から離脱した木戸:吹き荒れた「征韓論争」の嵐と政変の兆し

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大隈重信 大蔵卿(Wikipedia)
大隈重信

どうも木戸や大久保に永く外に居られたのでは、
内閣が持ちきれぬ。

大隈重信

なるべく早く木戸・大久保を
帰朝させるようにして貰いたい。

大隈重信

ヨーロッパを廻ることは、
君が引き受けて、木戸や大久保を早く還してくれ。

このタイミングで、若手の連中が「木戸がいつ洋行から帰るか?」の議論に対し、

木戸孝允

お前たち下っ端が
ガタガタ言うな!

木戸孝允は激怒してしまったのでした。

伊藤博文

すると、ベルリンに滞在している
中に、木戸・大久保二公に帰朝の勅命が下った。

木戸孝允

・・・・・

「内閣からの要請」などであれば、木戸の立場ならば「蹴る」ことが可能でした。

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明治天皇(Wikipedia)

ところが、「勅命」では、木戸であろうと誰であろうと「従う」他ありませんでした。

伊藤博文

大久保公は、すぐに出発したが、
木戸公は使節を離れて・・・

伊藤博文

ロシア・イタリアに
旅行に出た。

伊藤博文

それであとは予と山口尚芳が、
岩倉公に随いて廻って帰朝した。

伊藤博文

何でも木戸公は明治六年の
七月に帰朝した。

岩倉使節団の洋行中に、「木戸孝允が大久保と不和になった」話は有名です。

ここで、伊藤は「木戸と大久保」には触れずに、

木戸孝允

天使様からの
勅命ならば、帰国するしかない・・・

木戸孝允

だが、私は使節団とは
離れて、別にロシア・イタリアに向かう。

木戸は「別にロシア・イタリアに向かった」と淡々と述べていました。

伊藤博文

予が六年の九月に帰ってみると、
征韓論がなかなか盛んに起こっていた。

伊藤博文

木戸公は、征韓論には
勿論不同意である。

伊藤博文

しかし、岩倉公の一行が帰るまでは、
可否の論は定まらなかった。

伊藤博文

予が帰朝してから、木戸公を
訪ねたところが、公は、

木戸孝允

これから先の
君の考えはどうか。

伊藤博文

と言われるから、予は自分の
意見を十分に述べた。すると、公は、

木戸孝允

そういう君の考えなら、
自分においては異存どころではない。

木戸孝允

全然
同意だ。

伊藤博文

と言われて、
頗る満足の体であった。

この時は、機嫌が良い木戸孝允。

伊藤博文の描写によると、岩倉使節団の頃から、木戸の機嫌の浮き沈みが多かった様です。

後に「征韓論争」と呼ばれ、明治新政府が瓦解するに至った大事件。

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明治六年の政変で下野した人物たち:左上から時計回りに、西郷隆盛、後藤象二郎、板垣退助、江藤新平(国立国会図書館、Wikipedia)

この「征韓論争」は、現在では「明治六年の政変」と呼ばれることが多いです。

岩倉使節団によって、大いなる見聞を広めた明治新政府。

ただし、使節団最大の目的であった「不平等条約の改正交渉」は「成果ゼロ」でした。

その一方で、莫大な金銭を費やしてしまった使節団。

各方面で、当時の日本が「極めて軽んじられている事実」が判明しました。

西郷隆盛

廃藩置県を
完了するごわす!

西郷隆盛

地租改正も
徹底するごわす!

伊藤が軽んじている「西郷内閣」は、確かに着実に革命を成し遂げつつありました。

ここに大いなる不和が生じてしまい、具体的には「征韓論」で決裂してしまいました。

「決裂した」というよりも、「爆発した」と言っても良い状況でした。

「下の意見をよく聞く」木戸でしたが、

木戸孝允

そういう君の考えなら、
自分においては異存どころではない。

本来ならば、「不協和音が生じた政府内」を、圧倒的政治力を持った木戸が引っ張ってゆくべきでした。

どうにもこの頃から「落ち着かない」木戸になっていました。

新歴史紀行

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