前回は「留守政府に「西郷もいた」と表現した伊藤〜西南戦争と維新政府若手・「歴史的事実を基とした虚構」歴史小説・「竜馬がゆく」の史実と巨大な虚構〜」の話でした。
若手の動きに激怒した木戸孝允:大隈「木戸と大久保は早期帰朝を」

とにかく、リアルで読み応えがありすぎる「伊藤公直話」。
もちろん、「伊藤個人の見解」であることを注意して読む必要があります。
伊藤博文大使一行の出た留守は、主に
大隈と井上がやっていた。



山縣・西郷なども
いた。


明治維新最大の功労者とされ、「維新の星」である西郷隆盛。
現代の視点から見れば、「西郷隆盛の明治維新」という雰囲気すら感じられる状況です。
この中、伊藤博文は、「伊藤公直話」において、全くと言って良いほど西郷を評価していません。



で、大久保と予が帰ってきたところが、
大隈や井上の言うには、





どうも木戸や大久保に永く外に居られたのでは、
内閣が持ちきれぬ。



なるべく早く木戸・大久保を
帰朝させるようにして貰いたい。



ヨーロッパを廻ることは、
君が引き受けて、木戸や大久保を早く還してくれ。



という
話であった。



ところが、それを誰であったか、
良い加減にいい曲げた。



井上・大隈が言い合わせて、木戸・大久保を
早く還すようにしている。



と言った者があったので、
木戸公は頗る不快に感じたらしい。





二、三の者が謀って
俺の進退を議する!



と言って、
怒られた。



それから予が出直して、
アメリカからヨーロッパに行き、木戸公に会った。



ところが、公の予に対する態度が
変わっていた。



どうしたことか、予には
ちっとも分からなかった。



しかし、予は気に留めずに、
そのままにしておいたのである。
どうやら、木戸孝允は、新政府の若者=下っ端が、自分の動きを勝手に変えようとしたのを怒りました。
これは木戸孝允の立場から見れば、当然のことであり、当時、明治新政府のトップだった木戸。


「明治政府の根幹」である五箇条の御誓文を作成した中心人物は、木戸孝允でした。
五箇条の御誓文作成には、由利公正(三岡八郎)なども関わっていますが、なんと言っても木戸中心でした。



・・・・・
「品川弥二郎の調停」却下した伊藤博文:ギクシャクした岩倉使節団





ある一日、イギリスのロンドンで、
木戸・大久保二公が山口尚芳らと食事をしておられた。



予は書記官らを統括して本国に報告書を
送ることを受け持っていたので・・・



その中に、我々使節一行が日本に帰朝するのは、
明治六年の夏を過ぎる時であろうと・・・



いうことを書いて、
印判を貰おうとした。



すると、木戸公は怫然
色をなして・・・



いつ日本へ帰るか、
分かるものか。



そんなことを今から言って
やる必要はない!



とかく二、三の若者が
言い合せて・・・



自分達の進退を
議する様子がある。



と言ったので、
初めて予は気がついた。



それは妙な話
である。



私が一遍アメリカから帰朝した際に、
井上・大隈がこう言ったことがある。



どうも木戸・大久保両人に永く外に
滞在されては内が困る。



なるべく早く帰って
貰いたい。



という
話があった。



つまり、内国の形勢から言った事で、
私もその時無理はないと考えた。



何も悪意で
言った事ではない。



誰かその間に、讒言を構えた者が
あったことと思う。



とにかく次第によっては、帰朝しろ、という
勅命が降るかも知れぬ。



・・・・・



と、こう言ったところが、
木戸公は、それでも尚不快らしかった。



その後、フランスやベルギー・オランダ等を
廻って、ドイツに行った。



ところが、青木周蔵や
品川弥二郎が来ていた。
| 名前 | 生年 | 松下村塾 |
| 吉田 松陰 | 1830 | ◯(指導者=先生) |
| 木戸 孝允(桂小五郎) | 1833 | – |
| 前原 一誠 | 1834 | ◯ |
| 入江 九一 | 1837 | ◯ |
| 山縣 狂介(有朋) | 1838 | △ |
| 高杉 晋作 | 1839 | ◯ |
| 久坂 玄瑞 | 1840 | ◯ |
| 伊藤 博文(俊輔) | 1841 | ◯ |
| 吉田 稔麿 | 1841 | ◯ |
| 品川 弥二郎 | 1843 | ◯ |
ここで、伊藤博文と同じ松下村塾出身者であった品川弥二郎が登場します。


写真の通り、優等生肌だった品川弥二郎。
品川は、後に松方内閣で内務大臣を務めます。



その時、
彼らの言うには、



どうも君と木戸の交際が
おもしろくないようだから・・・



我々が調和したい
ものである。



とか
言うのだ。



・・・・・



予は、これに
不承知を唱えた。



予と木戸との間柄に就いては、
お前達の調和を煩わすには及ばぬ!



と
断った。
当時、木戸・大久保に引き立てられ、政府の超重鎮となりつつあった伊藤博文。
そこに、意図せず「木戸と不和な感じ」となったものの、年下で格下の品川弥二郎。
伊藤博文の立場からすれば、



品川如きに、なぜ、
私と木戸さんの間を調停されればならんのだ!
こういうことだったのでしょう。



・・・・・
とにかく、周囲にも知れ渡るほど、木戸・大久保・伊藤の間はギクシャクしていたことは明らかでした。
| 立場 | 名前 | 生年 | 出身 |
| 正使 | 岩倉具視 | 1825 | 公家 |
| 副使 | 大久保利通 | 1830 | 薩摩 |
| 木戸孝允 | 1833 | 長州 | |
| 山口尚芳 | 1839 | 肥前 | |
| 伊藤博文 | 1841 | 長州 |
そして、この岩倉使節団トップ内部の「ギクシャク」は、明治六年の政変の一因にもなりました。
このことを考えると、伊藤は「品川の調和(調停)」を受け入れるべきだったのかも知れません。
幕末維新過程においては、最大の政治家であったのは間違いない木戸孝允。
もちろん、木戸にも欠点はあり、元々少し「物事を深読みしすぎる」傾向がありました。
岩倉使節団のころに、鳴り出した「木戸と大久保の不協和音」。
その音は、日増しに強くなっていったのでした。

