前回は「「率先して自ら事に当たる」大久保利通〜岩倉使節団で結びついた二人・西郷隆盛を切って捨てた伊藤博文・「蹶起された」明治政府の論理〜」の話でした。
大久保利通と西郷隆盛への「対照的」評価:西南戦争の極大衝撃

伊藤博文の直話をまとめた書籍であり、1936年に出版された「伊藤公直話」。
伊藤博文(西郷は)とにかく大人物であったが、
むしろ創業の豪傑で・・・



守成の人では
ないようだった・・・



公(大久保)は、なかなか思慮もあり、
決断もあり、軽忽に事をしなかった・・・



その自重の力は、殊に勝れたもので、
しかも難事が起これば、率先して自ら事に当たる人であった・・・
西郷隆盛と大久保利通に対しては、「正反対」の評価を下していた伊藤博文。
さらに、伊藤、木戸、岩倉たちに対しては「公」と呼び、西郷は「西郷南州」と呼び捨てでした。
確かに、西南戦争において一度は「賊」となった西郷隆盛。
その後、伊藤が主導した大日本帝国憲法発布の恩赦によって、西郷は「賊指定解除」となりました。
この事実を、大日本帝国憲法制定に「人生を賭けた」伊藤が知らないはずはありません。
おそらく、恩赦であろうとなんであろうと、伊藤にとっては、西郷は「賊の一味」だったのでしょう。
それほど、西南戦争が、明治政府に与えた影響が極大であったことを示すと考えます。



そして、その文明を日本に輸入しなければならぬ、
という考えを起こされた・・・



その結果が、征韓論の反対という
事になって現れたのである・・・
明治六年の政変において、大久保が「征韓論反対」の立場を貫いた姿勢を「正しい」とする伊藤。



然るに佐賀の乱が起こった時、
公(大久保)は内務卿を以って自ら征討に出てゆかれた・・・



公が決して文弱に陥った事無かれ主義の
人ではないことがわかる・・・
元参議・江藤新平が引き起こした佐賀の乱では、大久保は全権を握って鎮圧に乗り出しました。





江藤らは
賊!



この大久保が内務卿の権限を
超えて、全権を握って鎮圧する!
佐賀の乱において「全軍を率いた」形の大久保を、伊藤は非常に高く評価しています。
「快刀乱麻の如く」だった大久保利通:11歳年上の大久保への憧憬





大久保たちは、
間違っている!



この佐賀の力を
見せつけるのだ!
「薩長土肥」と呼ばれるものの、どう見ても「少し遅れ気味」だった肥前・佐賀。
明治六年の政変が起きた1873年の翌年、1874年に勃発した佐賀の乱。
佐賀の乱勃発には諸説あり、「大久保の挑発」説もあるほどです。
いずれにしても、明治維新の際には「未消化」だった「佐賀藩士の力」に賭けた江藤。
当時、内務卿だった大久保利通は「事実上の首相」と呼ばれる存在でした。
「首相」であっても、軍の指揮権は一切なかった大久保は「特例で全権を把握」しました。



次いで、台湾事件で
支那と葛藤が起こるや・・・



公は自ら請うて、
その難局に当たられた・・・
「台湾事件」は、佐賀の乱直後の1874年5月に勃発した、台湾への軍事攻撃を指します。
前年に「征韓論絶対反対」を唱えた大久保は、翌年に「台湾征討」に討って出ました。





大久保君・・・
それは違う!
台湾出兵を強行した大久保に対しては、木戸孝允は強硬に反対しました。



私は参議を
辞任する!
そして、木戸は「大久保への抗議」のため、参議を辞任しました。
この頃の「大久保と木戸のトラブル」には、間に挟まれた形となった伊藤博文。
おそらく、伊藤博文は「非常に困る」立場だったでしょう。



台湾事件当時の我が国情というものは、
所謂内憂外患こもごも到った有様であった・・・
この「内憂外患」には、「とても困った」伊藤の心情が込められていると考えます。



外には清国との交渉が
思わしくない・・・



内には種々の不平家が充満して、ともすれば
政府の鼎の軽重を問わんとする時であった・・・
「明治六年の政変」の余波が、極めて甚大であったことを、伊藤は赤裸々に語っています。
この中、快刀乱麻の如く「バッサバッサ」と問題を処理する大久保利通。
| 立場 | 名前 | 生年 | 出身 |
| 正使 | 岩倉具視 | 1825 | 公家 |
| 副使 | 大久保利通 | 1830 | 薩摩 |
| 木戸孝允 | 1833 | 長州 | |
| 山口尚芳 | 1839 | 肥前 | |
| 伊藤博文 | 1841 | 長州 |
そんな大久保に「憧れる気持ち」を、11歳年下の伊藤博文は感じたのでしょう。
この「直話」からは、伊藤博文の「大久保への憧憬」が感じられます。

