前回は「西南戦争は「実に馬鹿馬鹿しい間違い」〜大幹部達の内輪揉めと大内戦・「維新成立まで」の西郷隆盛評・次世代明治政府幹部の西郷への考え方〜」の話でした。
西郷隆盛を切って捨てた伊藤博文:「蹶起された」明治政府の論理

1936年(昭和11年)7月20日に発売された、「伊藤公直話」という本があります。
1909年に、伊藤博文が韓国で暗殺された後27年後に出版された書籍です。
伊藤博文の「直話」をまとめて編纂した書籍であり、伊藤博文自身の書籍ではありません。
この点では注意が必要ですが、全体を読んでみると、「伊藤が言いそうな本音」が多数あります。

筆者が所有している「伊藤公直話」は初版ですが、この後猛烈な勢いで増刷されました。
出版された1936年2月には、陸軍将校による大規模な決起事件「二・二六事件」が勃発しました。
当時の世情は、かなり不安定であり、日本はかなり暗い雰囲気だったと思われます。
この「真っ暗な昭和」の時代に、出版された「幕末維新から明治」の大英雄の「伊藤博文の直話」。
伊藤博文(西郷は)とにかく大人物であったが、
むしろ創業の豪傑で・・・



守成の人では
ないようだった・・・
西郷隆盛に対しては、異様に冷たい伊藤博文。



西南の乱は、
今から見れば・・・



実に馬鹿馬鹿しい
間違いで・・・
挙げ句の果てには、西南戦争は「実に馬鹿馬鹿しい間違い」と切って捨てました。





明治政府に
尋問の議あり!
「尋問される」ことになり、「蹶起された」明治政府の大幹部だった伊藤博文。
西郷一党が蹶起した西南戦争に関しては、西郷・桐野・篠原には彼らなりの「蹶起の論理」がありました。
ところが、伊藤博文にとっては、「馬鹿馬鹿しいもの」だったこと。
これは、当時の明治政府大幹部たちに共通する意識だったのでしょう。
「率先して自ら事に当たる」大久保利通:岩倉使節団で結びついた二人


そして、伊藤博文直話の筆頭には、大久保利通が登場します。



大久保公と予は、
以前から心やすくしてきた・・・



その心やすくなったのは、明治四年、
外国に施設として一緒に行った時からである・・・


| 立場 | 名前 | 生年 | 出身 |
| 正使 | 岩倉具視 | 1825 | 公家 |
| 副使 | 木戸孝允 | 1833 | 長州 |
| 大久保利通 | 1830 | 薩摩 | |
| 伊藤博文 | 1841 | 長州 | |
| 山口尚芳 | 1839 | 肥前 |
岩倉使節団において、正使・岩倉具視以外に、副使が四名いました。
そして、副使の中で最も年齢が若かった伊藤博文は、大抜擢を受けた形となりました。
この大抜擢の理由は、木戸孝允の「長州人を引き立てる」発想が中心でした。
おそらく、早い時期から大久保とも親しかった伊藤ですが、やはり「薩長の違い」がありました。
この点で、伊藤博文が「岩倉使節団で同行してから、大久保と仲良くなった」は本音と考えます。



それ以来、公が死ぬまで
大概百事相談をし合った・・・
岩倉使節団後から、「大久保側近」となったことを明確に明かしています。



公は、なかなか思慮もあり、
決断もあり、軽忽に事をしなかった・・・



その自重の力は、殊に勝れたもので、
しかも難事が起これば、率先して自ら事に当たる人であった・・・
この辺りは、大久保利通の「最も大久保らしい点」と考えます。



公が維新前に力を尽くされた事柄は、
藩の方にも朝廷の方にも種々あるが・・・



維新の際、薩長の兵を以って、
徳川慶喜の西上を阻んだのは・・・



実に公等の英断の
結果であった・・・
明治維新の軍事においては、西郷隆盛や大村益次郎が中心であり、大久保は「裏方」の印象があります。
その中、伊藤博文は、「大久保たちの策略こそが、慶喜を倒す原動力」と主張していました。
この点は、「西郷に異常に冷たい」伊藤の視点が、討幕時にも及んでいると考えます。



それから明治四年まで、藩制にも
大政にも関係し・・・



傍らヨーロッパに行って、各国の形勢を視察、
大いに指揮権を広めた・・・



そして、その文明を日本に輸入しなければならぬ、
という考えを起こされた・・・



その結果が、征韓論の反対という
事になって現れたのである・・・
「明治六年の政変」と言われる大事件では、「征韓論」は議題の一つに過ぎませんでした。
この事件の本質は「政争」でしたが、「大久保派」伊藤は、「征韓論」を中心に据えました。
「征韓論反対は正論」であると断言した伊藤は、明確な己の視点を明らかにしました。
「大久保は正しかった」=「西郷は正しくなかった」視点、を。

