前回は「羽柴秀吉 13〜中世の「民衆パワー」と合戦 4〜」という話でした。

若狭を経由して、辛くも京へ撤退した織田信長。

おそらく、秀吉も同様のルートを通って京へ退却し、「信長を後方から守った」と考えます。

後世から見ると、「うまく退却しました」で済んでいます。
しかし、前に朝倉・後方から裏切った(織田家にとって)浅井軍が来ています。

いずれも弱兵というよりもむしろ強兵であった朝倉・浅井軍。
この状況と朝倉・浅井の軍事力を考えれば、その殿軍は「ほぼ絶望的な」状況でした。

秀吉とは、
今生ではもはや会えぬか・・・



信長様を、
お守りしろ!





信長を討ち取れ!



信長様をお守りし、
我も退却してみせる!
当時の武将では、誰も気が付かなかった「民衆の底力」をただ一人熟知していた秀吉。



死んでたまるか!
この金ヶ崎の戦いの殿軍の成功は、その「民衆の底力」によるところが最大であるのが実態だったでしょう。
後世、豊臣秀吉となった羽柴秀吉。


豊臣秀吉は二つの理由で、あたかも「自らの卓抜した軍事力のみで成功した」ように宣伝しました。



私の力の原動力=「民衆の力」は、
隠したい。



私の軍事能力を高く
喧伝したい!
そして、秀吉の参謀であり影でもある蜂須賀正勝は、あまり表出ることなく、その役割を十二分に果たします。


川並衆という、荒くれ者を率いていた蜂須賀正勝。



撹乱は得意だ!
そして、「民衆が何を望んでいるのか」を知り尽くしていました。
この蜂須賀たちが民衆の力を軍事力に転化させ、羽柴軍を支えていたのです。