前回は「抜群に確度が高い情報を有した情報将校・羽柴秀吉〜冴えた秀吉の「民衆パワーを活かした」情報網・岐阜奪取から一気に勢いに乗った織田信長〜」の話でした。
「戦国最高の貴人」が寄ってきた旭日の勢いの織田家
ついに、ついに
稲葉山城を奪取したぞ!
これよりこの地を
岐阜と名称を変える!
この岐阜から
天下を目指すのだ!
尾張半国の大名だった織田家が、尾張と美濃を領する大大名になりました。
濃尾二か国で100万石ほどの大領土を獲得し、さらに両国ともに商業も盛んな地を領した織田家。
信長殿を
頼りたい・・・
私は足利家家臣
明智光秀です・・・
「日が昇る」ような異常な勢いを持っていた織田家には、様々な人物が寄ってきました。
中でも、「戦国最大の貴人」とも言える「足利将軍になりうる足利義昭」までもが寄ってきた織田家。
「最大の貴人」は、本来は天皇です。
ところが、さすがに天皇は「雲の上」で別格あり、戦国大名は「御目通りする」のみです。
将軍家を
奉じて京へ!
そして、京周辺制圧に成功した信長は、
目障りな
朝倉義景を潰せ!
一気に越前「目の上のタンコブ」であった朝倉家を討伐しようとしました。
殿!
浅井長政、裏切りです!
当初、全く信じなかった信長でしたが、
殿!我が情報網では、
「浅井裏切り」は確実です!
猿の情報網で
判明したか・・・
よしっ!
撤退だ!
織田家情報将校・秀吉の運命:浅井・朝倉との死闘
若狭を経由して、辛くも京へ撤退した織田信長。
さすがに
今回は危なかったが・・・
おそらく、秀吉も同様のルートを通って京へ退却したでしょう。
そして、
信長様の撤退ルートを
守り抜くのだ!
「信長を後方から守った」と考えます。
後世から見ると、「うまく退却しました」で済んでいます。
ところが、前に朝倉・後方から裏切った(織田家にとって)浅井軍が来ていました。
信長を
討ち倒せ!
いずれも弱兵というよりもむしろ強兵であった朝倉・浅井軍。
信長を
討つのだ!
約束を簡単に違える
信長など信用できるか!
この状況と朝倉・浅井の軍事力を考えれば、その殿軍は「ほぼ絶望的な」状況でした。
秀吉とは、
今生ではもはや会えぬか・・・
内心、信長はこう考え、
猿(秀吉)を失うのは、
我が織田家の大きな損失だが・・・
今は、
そんなことは言っておれん・・・
織田家の情報将校として、確実な出世を続けていた秀吉。
名前 | 生年(一部諸説あり) |
織田信長 | 1534年 |
林秀貞 | 1513年 |
柴田勝家 | 1522年 |
滝川一益 | 1525年 |
佐久間信盛 | 1528年 |
明智光秀 | 1528年 |
丹羽長秀 | 1535年 |
羽柴秀吉 | 1537年 |
この頃、キラ星の如く優れた人物が大勢集まっていた織田家でしたが、
猿めの能力は
権六(柴田)や佐久間にはない特殊能力だ・・・
天才・織田信長は「羽柴秀吉の異常な希少価値」を当時最も理解していました。
なんとか
猿めも生き残って欲しいが・・・
猿の
采配に期待だな・・・
こうして、秀吉に殿軍を任せて、風のように京へ撤退に成功した信長。
「中世の民衆パワー」を軍事力に転化させた羽柴秀吉
信長様を、
お守りしろ!
信長を
討ち取れ!
信長様をお守りし、
我も退却してみせる!
当時の武将では、誰も気が付かなかった「民衆の底力」をただ一人熟知していた秀吉。
死んで
たまるか!
この金ヶ崎の戦いの殿軍の成功の最大の理由は、「民衆の底力」を活かした秀吉の采配でした。
この「民衆の底力」による「正確な情報と援軍」が最大であるのが実態だったでしょう。
後世、豊臣秀吉となった羽柴秀吉。
豊臣秀吉は二つの理由で、あたかも「自らの卓抜した軍事力のみで成功した」ように宣伝しました。
私の力の原動力=「民衆の力」は、
隠したい・・・
私の軍事能力を高く
喧伝したい!
このように考えた秀吉は、当時の記録を変えさせました。
とにかく、私の立場を
強化した描き方にしろ!
「羽柴秀吉という特殊能力を持った戦国武将の功績」として、金ヶ崎は記録されました。
そして、秀吉の参謀であり影でもある蜂須賀正勝は、
俺たちは
俺たちにしか出来ないことがある!
あまり表出ることなく、その役割を十二分に果たします。
川並衆という、荒くれ者を率いていた蜂須賀正勝。
撹乱は
超得意だ!
そして、「民衆が何を望んでいるのか」を知り尽くしていました。
「中世の民衆パワー」を軍事力に転化させることに成功した、「民衆出身」の羽柴秀吉。
この蜂須賀たちが、羽柴軍を支えていたのです。