前回は「「小田原評定」化した帝国最高首脳会議〜「日米交渉悲観論」を発した松岡洋右・「要検討」で終了した会議・及川古志郎の謎の意見〜」の話でした。
全く一貫性がなかった松岡洋右の主張:ドイツとソ連の「仲立ち」崩壊

1941年6月22日の独ソ戦勃発直後の6月27日、政府大本営は連絡会議を行いました。
独ソ戦勃発によって、「大日本帝国の国家の方針を大きく変更する」必要に迫られたためでした。
この頃、ドイツにベッタリだった帝国陸軍と歩調を合わせていた松岡外相。
松岡洋右ドイツは、破竹の勢いで
欧州で領土を広げている!
松岡外相は、日独伊三国同盟を猛烈に推進する立場を堅持しました。



日ソ中立条約を
締結しました!
1941年4月13日に松岡外相は自ら主導、というよりも独断に近い状況で日ソ中立条約に署名しました。



この松岡が、
スターリンと直接交渉したのだ!
| 地域 | 覇者 |
| 西欧 | ドイツ |
| 東亜 | 大日本帝国 |
| 米州 | 米国 |
| ロシア | ソ連 |
本来「相入れるはずがない」ドイツとソ連の間に、大日本帝国が「仲立ち」する形になりました。





Sovietに
侵攻する!
ところが、同盟国である帝国政府に「正式通告」することなく、独ソ戦を独自に猛推進したヒトラー。



United Kigdom(大英帝国)を
屈服させるために、Sovietを叩く!
当時「欧州の最強国」であったドイツでしたが、完全な「二方面作戦」でした。
その結果、ドイツ軍の戦力が大きく分散されました。
そして、大日本帝国の「仲が悪いドイツとソ連の仲立ち」戦略は根本から崩壊したのでした。





支那事変を、ある程度止めても、
北をやるのが良いのではないか。



日ソ中立条約は
初めから止めても良かった。



・・・・・



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この異常事態に対して、松岡外相の論法・方法論は、全く一貫性がありませんでした。
「会して議せず、議して決せず」近衛首相:ようやく決定した新国策


ここで、膨大な領土を持つソ連と「直接国境を接していた」大日本帝国。
国家の方針転換を、侃侃諤諤、というよりも「小田原評定」的に話していました。
第二の二
帝国は自存自衛上南方用域に対する各般の施策を促進す
之が為対英米戦準備を整へ、先づ「南方施策促進に関する件」に拠理仏印及泰に対する諸方策を完遂し以て南方進出の体制を強化す帝国は本号目的達成の為対英米戦を辞せず
第二の三
独ソ戦に対しては三国枢軸の精神を基調とするも暫く之に介入することなく密かに対ソ武力的準備を整へ自主的に対処す
独ソ戦争の推移帝国の為極めて有利に進展せば武力を行使して北方問題を解決し北辺の安定を確保す
第二の四
前号遂行に方り各種の施策就中武力行使の決定に際しては対英米戦争の基本態勢の保持に大なる支障なからしむ
どうにも曖昧であり、「何が基準で極めて有利」なのか分からない文言などが並んでいました。



そろそろ、
決めたいのだが・・・


「密かに対ソ武力的準備を整へ」に対しては、陸軍は修正を試みました。



ここは「武力行使決意の下に密かに準備を開始し」
としたいのだが・・・
すなわち、「武力行使決意の下に密かに準備を開始し」を追記しようとした陸軍。





海軍としては
呑めません!
ところが、岡海軍軍務局長は拒否しました。
この「文言の違い」は、それほど大きいとは思えませんが、陸海軍の実務者幹部で協議が続きました。
第二の二
帝国は自存自衛上南方用域に対する各般の施策を促進す
之が為対英米戦準備を整へ、先づ「対仏印泰施策要項」及「南方施策促進に関する件」に拠り(先づ「南方施策促進に関する件」に拠り)仏印及泰に対する諸方策を完遂し以て南方進出の体制を強化す帝国は本号目的達成の為対英米戦を辞せず
第二の三
独ソ戦に対しては三国枢軸の精神を基調とするも暫く之に介入することなく密かに対ソ武力的準備を整へ自主的に対処す。此の間固より周密なる用意を以て外交交渉を行う。
独ソ戦争の推移帝国の為(極めて)有利に進展せば武力を行使して北方問題を解決し北辺の安定を確保す
第二の四
前号遂行に方り各種の施策就中武力行使の決定に際しては対英米戦争の基本態勢の保持に大なる支障なからしむ
そして、1941年6月24日に提示された案は、6月27日に決定に至りました。
上の抜粋において、「黄色部分」が修正で、「青色部分」は削除です。
確かに修正になりましたが、相変わらず曖昧であり、どことなく「グレーな感じ」の文章でした。





そもそも私は
大本営案に不同意であり・・・
ところが、このように「三国同盟を基軸」として帝國陸海軍が協議の中、近衛首相は不満そうでした。



私は三国同盟からは
離脱の考えである・・・
挙げ句の果てに、「帝国の基軸」であった「三国同盟破棄」を言い出していた近衛首相。





連日の連絡懇談会においては、
相変わらず、近衛首相は・・・



会して議せず、議して決せずの
態度を示していた・・・
「会して議せず、議して決せず」の態度であった、総理大臣の近衛文麿。



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対米戦直前のこの時期において、近衛首相のこの「沈黙」は不気味でしかない状況でした。
次回は上記リンクです。


