前回は「「超甘い」目算を持っていた松岡外相〜ドイツの超過大評価・「若者を欧州に送らない」公約で圧勝したルーズベルト大統領・そうそうに参戦決めていた米国・ヒトラーが目指した最新兵器〜」の話でした。
「独ソ戦は1/2」の誤認識:日本に強い疑念を持った米国

HullJapanのNomuraとは
外交交渉しているが・・・



全然進展しない・・・
Japanは協議妥結の意図はないのでは・・・



まあ良い・・・
これは戦争しかないな・・・
1941年6月頃には、すでに「参戦の意思」をガッチリ固めていた米国の政府大幹部たち。


1941年6月27日には、帝国政府と大本営大幹部たちが今後の方針を協議していました。


この頃の帝国政府+大本営の様子が、詳細に語られているのが「大東亜戦争全史」です。
第二の二
帝国は自存自衛上南方用域に対する各般の施策を促進す
之が為対英米戦準備を整へ、先づ「南方施策促進に関する件」に拠理仏印及泰に対する諸方策を完遂し以て南方進出の体制を強化す帝国は本号目的達成の為対英米戦を辞せず
第二の三
独ソ戦に対しては三国枢軸の精神を基調とするも暫く之に介入することなく密かに対ソ武力的準備を整へ自主的に対処す
独ソ戦争の推移帝国の為極めて有利に進展せば武力を行使して北方問題を解決し北辺の安定を確保す
第二の四
前号遂行に方り各種の施策就中武力行使の決定に際しては対英米戦争の基本態勢の保持に大なる支障なからしむ



独ソ戦は
短期に終わる!



本年中には独英戦も
終わる!
この頃は近衛内閣でしたが、会議を独断で取り仕切っていたのが松岡外相でした。
| 名前 | 生年 |
| 杉山 元 | 1880 |
| 松岡 洋右 | 1880 |
| 永野 修身 | 1880 |
| 近衛 文麿 | 1891 |
「たまたま」と思われますが、同い年だった大幹部の松岡外相、杉山参謀総長、永野軍令部総長。
彼らに対して、11歳も年下であった近衛文麿は「小僧扱い」でした。



独ソ戦発生の公算は
二分の一と考えていたところ・・・



今日すでに
発生した・・・
このように「独ソ戦は1/2の確率と踏んでいた」と明言した松岡外相。
辞任すべきだった松岡洋右:リッベントロップ「独ソ戦不可避」+大島情報





今やGermanyとSovietの
戦争は不可避である!



!!!!!
独ソ戦一月前の1941年5月28日、リッベントロップ独外相から、このように明言を受けていた松岡。
外相が、ここまで言うからには「事実上の通告」でした。
それにも関わらず、「1/2の確率と踏んでいた」松岡。



まさか本当に
ソ連に侵攻するとは・・・
なんといっても、自ら強行した日ソ中立条約を根底から覆すのが独ソ戦。


陸軍士官学校、陸軍大学校を卒業したバリバリの陸軍軍人であった大島浩。
若い頃からドイツに駐在し、ヒトラーを猛烈に支持していたのが大島でした。
ドイツ語を流暢に話せるようにになり、1941年当時は駐独大使だった大島浩。
ヒトラーともリッベントロップとも親しく、ドイツ語が流暢な大島は、多数の情報を握っていました。



どうやら、本気でヒトラーは
ソビエトに侵攻する模様・・・
大島は、独自の「ドイツ語外交」で得た情報を統合し、そのように分析して外務省に打電していました。
この「独外相の通告+駐独大使からの報告」を統合すると、どう考えても「独ソ戦ほぼ100%」でした。
「甘すぎる認識」を超えて、「単なる妄想狂」であったとしか思えない松岡洋右。
本来ならば、「想定外の独ソ戦勃発」の事態において、松岡は責任とって辞任すべきでした。


そして、首相である近衛文麿は、松岡のクビを切るべきでした。



重慶(蒋介石)との
全面和平の見込みはない・・・



ソ連と中立条約をつくり、
ドイツと手を握り・・・



ただ残るは
米国のみとなった・・・
| 地域 | 覇者 |
| 西欧 | ドイツ |
| 東亜 | 大日本帝国 |
| 米州 | 米国 |
| ロシア | ソ連 |
「松岡構想」によれば、大日本帝国は「世界の3/4と手を組んだ」ことになっていました。
そもそも、単なる個人的な「松岡構想」でしたが、当時の外務省はこの考えが中心でした。



渡欧中、米国に参戦阻止と援蒋中止を
趣旨とする個人メッセージを出した・・・



帰京後、米国の返事をみたところ、
吾輩の考えと違っていた・・・
すでに、米国は松岡をまともに相手にしていませんでした。
これに気づかず、とにかく「引っ掻き回すだけ」だったのが松岡洋右でした。
次回は上記リンクです。


