「土佐山内のシンボル」高知城〜大きな石樋による排水と綿密な設計・「一豊夫人・千代の名馬物語」と山内家ブランド戦略〜|高知城4・土佐の象徴

前回は「最大の「加増倍率」を受けた山内一豊〜「関ヶ原」で家康から大領土受けた大名・秀吉に恐れられた黒田如水・家康の如水封殺策〜」の話でした。

目次

「土佐山内のシンボル」高知城:大きな石樋による排水と綿密な設計

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高知城(新歴史紀行)

「関ヶ原」による恩賞の結果、6万石から一気に24万石となった山内一豊。

大名関ヶ原前の石高関ヶ原後の石高関ヶ原後/関ヶ原前
黒田長政(孝高)13万石52万石4倍
藤堂高虎8万石20万石2.5倍
山内一豊6万石24万石4倍
徳川恩顧の外様大名の「関ヶ原」による領土加増

加増の倍率としては、黒田長政と同率トップでした。

その一方で、そもそも黒田長政と山内一豊は「全然違う」立場でした。

秀吉の子飼として、一生懸命働き続けた山内一豊は「一定の軍略の才能」はありました。

黒田長政に対しては、「関ヶ原」前後の調略と戦場の武勇が高い評価を受けています。

そのため、黒田長政の方が山内一豊よりも名将という扱いとなりことが多いです。

このあたりの評価は様々ですが、そもそも「黒田と山内は別格」だったのが明白でした。

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豊臣家重臣 黒田孝高・官兵衛・如水(図説・戦国武将118 学研)

羽柴秀吉の参謀役であった黒田如水が、黒田長政の父親であり、「大封は当然」でした。

黒田如水

この如水が、
九州を切り取ってくれるわ!

さらに、「関ヶ原」直前には、「打倒家康」で勝手に領土を増強させていた如水。

徳川家康

長政には
一気に50万石越えにして・・・

徳川家康

如水を
黙らせなければ・・・

徳川家康

奴(如水)は、
また何か画策するだろう・・・

「如水対策料」も含まれた、黒田長政への「4倍の封土」でした。

すると、「加増倍率ダントツトップ」となったのが山内一豊でした。

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高知城:山内一豊像(新歴史紀行)
山内一豊

以前の土佐国主・長宗我部の
色を払拭し・・・

山内一豊

これから、土佐は
山内家が差配するのだ!

山内一豊

その「山内家の土佐」の
象徴となる城を築城する!

新たに「土佐山内のシンボル」を求めた山内一豊は、小高い丘に大きな城を築城することにしました。

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高知城(新歴史紀行)

大きいばかりはなく、高知城では、排水に対する対策もきちんと練られています。

かなり目立つ大きな石樋が多数確認されており、設備も含めた綿密な築城計画が伺えます。

「一豊夫人・千代の名馬物語」と山内家ブランド戦略

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高知城(新歴史紀行)

そして、高知城内には、良妻の象徴的存在である山内一豊夫人・千代の像があります。

嫁入りの持参金をはたいて、「夫・一豊のために名馬を買った」話です。

まさに伝説のようになっている、この話。

真偽は定かではなく、大いに脚色されていると思われます。

おそらく、この「千代の名馬話」もまた、「山内家のブランド作りのため」だったでしょう。

名前生年
羽柴秀吉1537年
山内一豊1546年
石田三成1560年
福島正則1561年
加藤清正1562年
羽柴秀吉と豊臣家有名武将と山内一豊の生年

早い時代から織田家に仕えた山内一豊。

一豊の年齢は秀吉の9歳年下であり、秀吉と同僚格でした。

そして、1577年頃から、中国攻略の総司令官となった羽柴陣営に加わっていた山内一豊。

一定の能力を有していましたが、「秀吉の子飼」となるには「年齢が上過ぎた」一豊。

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左上から時計回りに、羽柴秀吉、石田三成、福島正則、加藤清正(歴史群像シリーズ 図説・戦国武将118 学研、Wikipedia)

秀吉から見て、23〜25歳ほど年下の加藤清正、福島正則、石田三成らは「可愛い存在」でした。

それに対して、秀吉の同僚格であった山内一豊は「秀吉と軍功を競う」立場でした。

この微妙な年齢的立場もまた、一豊にとって「豊臣政権で活躍しずらい」ことになりました。

山内一豊

早くから秀吉様に
従ってきたが・・・

山内一豊

加藤、福島らは24万石ほど、
石田は19万石ほど・・・

山内一豊

対して、この一豊は
たった6万石であった・・・

「大盤振る舞い」だった豊臣政権において、「6万石の立場」だった一豊。

山内一豊

・・・・・

一豊は、内心は忸怩たる思いをしていたでしょう。

その中、「家康に思い切って賭けた」一豊は、大ヒットして家康に大評価されました。

その結果、「一城の主」から一気に「一国の主」へと飛躍した一豊。

一豊の気持ちが、極めて盛り上がり、新たな築城に大いなる資金とエネルギーを投入したのは当然でした。

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高知城(新歴史紀行)

小高い丘を登ってゆくと、ようやく天守閣が見えてきました。

天守閣自体は、それほど大きくはありませんが、天守閣の下部にそびえ立つ石垣は立派です。

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高知城(新歴史紀行)

必要以上に大きな石垣によって、要害堅固であると同時に「異様な威圧感」があります。

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高知城(新歴史紀行)

この石垣が、山内一豊自身の差配・縄張りによるものか、築城の名人たちに尋ねたのかは不明です。

築城二巨頭(新歴史紀行)

・加藤清正

・藤堂高虎

一豊の近くには、豊臣以来の加藤清正や新たに徳川派となった藤堂高虎がいました。

おそらく、築城を開始した1601年頃、ベテランだった山内一豊は、

山内一豊

我が築城術を
見せてくれるわ!

おそらく、有能な人物の手助けを受けながら、独自の築城能力で高知城を建築・縄張りしたと考えます。

その一豊の「猛烈な熱意」が感じられるのが、高知城です。

次回は上記リンクです。

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