軍服姿が多い真面目な東條英機〜優しい雰囲気の「スーツ姿」の東條・日独伊三国同盟と海軍・超険悪だった陸海軍と「陸海軍大将会」〜|東條英機4・能力・性格・エピソード

前回は「東條家の悲願を胸に生きた東條英機〜「逆賊」盛岡藩出身の父・東條英教・武士の生き様貫いた南部家〜」の話でした。

新歴史紀行
東條英機 内閣総理大臣兼陸軍大臣(国立国会図書館)
目次

軍服姿が多い真面目な東條英機:超険悪だった陸海軍と「陸海軍大将会」

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1940年6月陸海軍大将会(丸 戦争と人物7「参謀本部と軍令部」)

猛烈な超真面目少年で、陸軍士官学校に入学した東條英機。

父親が東條英教陸軍中将だった東條英機は、ある意味で「陸軍のサラブレッド」でした。

東條英機

陸軍士官学校で猛勉強し、
実務でも一生懸命だ!

そして、陸軍の内部抗争もあった中、概ね陸軍のエリート街道を走り続けた東條英機。

今回は、少し時計の針を先に移動して、1940年の頃の東條英機の話です。

組織職務
陸軍省軍政・人事
参謀本部軍令
前線の各方面部隊最前線の陸軍戦闘部隊
帝国陸軍の組織と職務

当時の帝国陸軍は、上の表のように組織と職務が分かれていました。

満洲で関東軍参謀長などを務めた経験がある東條英機は、

東條英機

私は陸軍次官を務め、
陸軍大臣へ登りつめた!

主に陸軍省で勤務することが多く、最後は陸軍大臣から、総理大臣になりました。

組織職務
海軍省軍政・人事
軍令部軍令
連合艦隊最前線の海軍戦闘部隊
帝国海軍の組織と職務

当時の帝国海軍もまた、帝国陸軍と似た組織と職務を持っていました。

帝国陸海軍に限らず、各国の陸海軍は仲が悪く、帝国陸海軍では「超険悪な仲」でした。

戦争においては、「陸軍が主で、海軍が従」またはその逆の「「海軍が主で、陸軍が従」もあります。

メインの戦いはどちらかとなることが多い中、やはり両軍の意思の疎通は最重要でした。

第二次世界大戦・大東亜戦争を通じて、「陸海軍の連携が悪かった」帝國陸海軍。

それでも、このように「陸海軍大将会」が開催されて、親睦が図られていました。

上の写真は、1940年6月の陸海軍大将会で、和服姿も多いです。

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1940年6月陸海軍大将会における東條英機(丸 戦争と人物7「参謀本部と軍令部」)

その中、「いつも通り」軍服であった東條英機陸軍次官は、

東條英機

今日は、海軍の皆さんと
色々と話し合いたい・・・

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永野修身 軍令部総長(連合艦隊司令長官 別冊歴史読本 新人物往来社)

対米戦開戦時も軍令部総長であり、自称「海軍のボス」であった永野軍令部総長は、

永野修身

まあ、東條さん、
今日は楽しくやりましょう!

当時は、日中戦争(支那事変)真っ只中で、中国大陸で苦戦を続けていた帝国陸海軍。

とは言っても、一貫して「中国を押していた」帝国陸海軍の雰囲気は、ゆとりすら感じられます。

優しい雰囲気の「スーツ姿」の東條:日独伊三国同盟と海軍

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1940年12月陸海軍大将会における東條英機(丸 戦争と人物7「参謀本部と軍令部」)

このわずか半年後の1940年12月に、再度「陸海軍大将会」が実施されました。

同年6月の時とは異なり、中央に及川古志郎などがいます。

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及川古志郎 海軍大臣(Wikipedia)

海兵28期卒業の永野修身より、3期下の及川古志郎。

永野修身

及川君は、
私の言うことをよく聞く・・・

及川古志郎

海軍兵学校校長では、
永野さんの路線を継承しました!

この12月の直前の9月には第二次近衛内閣で海軍大臣となった及川。

永野修身

及川君も
海軍大臣か・・・

及川古志郎

永野さんの
おかげです!

「永野の忠実な子分」であり続けた及川古志郎は、顔つきの通り「失点が少ない」人物でした。

そして、中国の漢籍に極めて造詣が深いことで有名でしたが、「個性がない」人物でした。

永野修身

吉田善吾君が
倒れてしまってね・・・

山本五十六と同期の吉田善吾は、海軍大臣として必死に頑張りましたが、倒れてしまいました。

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吉田善吾 海軍大臣(Wikipedia)
吉田善吾

日独伊三国同盟のことで
混乱が続いてしまって・・・

顔つきからして「超真面目」だった吉田は、海軍大臣の職責に耐えられなくなり、倒れてしまいました。

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山本五十六 連合艦隊司令長官(連合艦隊司令長官 別冊歴史読本 新人物往来社)
山本五十六

私が吉田を
支えてやれば良かったが・・・

本来「海軍大臣になるべき」であった山本五十六は、連合艦隊司令長官に就任していました。

永野修身

吉田君の後に、
及川君、頼むよ・・・

そして、「及川 新海軍大臣就任お祝い」で、及川は長野より中央にいるのでしょう。

この会の「陸海軍大将会」では、大きな特徴があり、全員が揃ってスーツ姿であることです。

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1940年12月陸海軍大将会における東條英機(丸 戦争と人物7「参謀本部と軍令部」)
東條英機

今回は、全員スーツで、
ということなので、私もスーツです。

とにかく「軍人であること」に忠実であった東條英機。

首相になった後は、「ほぼ全て軍服」を着ており、この前後の陸軍大臣などの時も軍服が多いです。

陸海軍ともに、「軍人といえば軍服」ですが、東條ほど軍服が似合う人物も珍しいです。

東條英機

今日は、同じスーツ姿で、
陸海軍、話し合いましょう!

このスーツ姿の登場を見ると、優しい雰囲気にすら見えます。

この頃は、すでに日米関係が悪化し始めていた頃でした。

一方で、まだまだ日米戦は現実視されていない状況でした。

永野修身

我が海軍は、
世界に確たる地位を築いた!

無理に無理を重ねて、懸命に拡大化し続けた帝国海軍。

この頃は、艦船数・トン数で米国と大英帝国に次ぐ「海軍第三位」でした。

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戦艦大和(Wikipedia)

翌年には「軍機」とされ、ごく一部の人物しか知らない「超巨大戦艦大和」の完成を迎える予定でした。

永野修身

超巨大戦艦に二隻が
間もなく進水する・・・

永野修身

我が海軍は、今や
世界二位と言っても良い!

東條英機

我が陸軍も
支那事変を早期に終わらせましょう!

切迫感がそれほどなく、「和やかな雰囲気」すら感じられる1940年12月の陸海軍大将たちでした。

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