前回は「脱藩=大犯罪を敢行した龍馬〜土佐から伊予の山々へ・「土佐→江戸」の1/3ほどの「土佐→長州」・江戸での遊学と剣術修行〜」の話でした。
無国籍となった坂本龍馬:封建制度における「脱藩」の意味

幕末維新の人物の中で、最も人気がある人物の一人である坂本龍馬。

日本をいま一度、
せんたくいたし申し候!
こう手紙で「大言壮語」した坂本龍馬。
このスケール感覚の大きさこそが、龍馬が大人気の最大の理由です。
龍馬のこの言葉に関する話を、上記リンクでご紹介しています。
そして、キラ星の如く登場した幕末維新の人物の中でも、実行力は最たるものでした。



土佐藩を
脱藩するぜよ!
思い切って、土佐藩を脱藩した坂本龍馬。


薩長土肥と呼ばれる、「討幕(倒幕)主導四藩」のうち、土佐藩は異様なほど身分秩序が厳しい組織でした。



土佐藩に居ては、
私は芽が出ない・・・
「上士が動かす」ことが明確だった土佐藩では、下士だった龍馬には「出番」はなかったのでした。
そして、ついに若き27歳ころの坂本龍馬は1862年に「出身藩を脱出する」ことにしました。





土佐藩を脱藩して、
長州へ!
そして、長州へ向かった坂本龍馬。
封建制度の当時において、脱藩とは「無国籍になること」に等しい状況でした。
現代で、「無国籍になる」ことを「選択する」ことは、基本的には考えられません。
幕末において、一部で「流行現象」となった脱藩は、それほど大きなことを意味しました。
「道なき道」を切り拓いて歩いた伊予山中


四国の山々を必死に駆け抜けたと思われる坂本龍馬。
龍馬の脱藩行は、「隠密行動」であったはずで、公式記録はありません。
そもそも、公式記録を「残せる状況ではなかった」はずであり、



とにかく、
長州に辿り着かなければ・・・
名前 | 生年 | 所属 |
大村 益次郎 | 1825 | 長州 |
西郷 隆盛 | 1827 | 薩摩 |
大久保 利通 | 1830 | 薩摩 |
木戸 孝允 | 1833 | 長州 |
坂本 龍馬 | 1835 | 土佐 |
中岡 慎太郎 | 1838 | 土佐 |
高杉 晋作 | 1839 | 長州 |
久坂 玄瑞 | 1840 | 長州 |
討幕(倒幕)を主導した人物たちは、概ね20代から30代でした。
当時の27歳は、現代の35歳頃にあたると考えられますが、極めて重大な決断をした龍馬。


龍馬が脱藩した頃は、薩摩は佐幕で幕府側でした。



長州は、やたらと
暴れているが・・・



我が薩摩は
幕府側だ・・・
龍馬が脱藩した1862年の2年後に、禁門の変を起こした長州。
当時の長州は、日本において最も活動的であり、広く人物を受け入れていました。



土佐藩を脱して、
長州から新たな未来を!
そして、大藩であり発言力も強かった土佐藩を「脱藩=脱出する」という罪をあえて犯した龍馬。
龍馬の行き先は、「長州しかなかった」のが現実でした。


愛媛県の山奥にあたる川辺町には、龍馬脱藩行の伝承がある道があります。
上の写真のように、かろうじて人が行ける道であり、傾斜が強い山道です。


「道なき道」を切り開いて歩いた伊予の山中において、



この龍馬が、
世界を変えるぜよ!
このように「熱い気持ちを持っていた」と考えたいですが、実際は当時の龍馬は、



とにかく、途中で
捕まってはならないぜよ・・・
ひたすら必死に「北西の長州」へ向かって歩き続けていたのでしょう。
「捕まったら終わり」の中、「雄大な夢」を考えている場合ではなかったはずです。
「生死の境」を何度も経験した、多数の幕末の志士たち。



脱藩して、坂本家にも
大きな傷を負わせてしまったぜよ・・・
龍馬の「脱藩行」は、その中でも「最たるもの」の一つでした。
そして、この脱藩行は、龍馬の精神力を大いに強化したのは間違いなかったでしょう。
次回は上記リンクです。