脱藩=大犯罪を敢行した龍馬〜土佐から伊予の山々へ・「土佐→江戸」の1/3ほどの「土佐→長州」・江戸での遊学と剣術修行〜|龍馬脱藩行2

前回は「北西へ向かって駆け抜けた坂本龍馬〜御幸の橋と龍馬・地元おすすめの「脱藩の雰囲気が感じられる」ルート〜」の話でした。

目次

「土佐→江戸」の1/3ほどの「土佐→長州」:江戸での遊学と剣術修行

土佐藩脱藩藩士 坂本龍馬(国立国会図書館)
坂本龍馬

土佐を脱藩して、
新たな世界へ!

1835年生まれの坂本龍馬は、剣術の修行をするために江戸で過ごした時期がありました。

当時は、それぞれの藩が国家のような状況であったため、「江戸へ留学」となります。

龍馬は正式な「留学」ではなかったため、「江戸遊学」でした。

龍馬が江戸遊学したのは、1853年で、18歳の頃でした。

この「江戸遊学」の時は、土佐から東へ向かっていった龍馬。

おそらく、土佐から讃岐へ歩いてゆき、船で大坂へ向かって、京から江戸へ向かったでしょう。

坂本龍馬

江戸遊学の時は、
2年ほど江戸にいたぜよ・・・

今回は、「東へ」ではなく「西へ」向かうことになり、目的地は「江戸より遥かに近い」長州でした。

新歴史紀行
江戸中心の日本列島(新歴史紀行)

「京・山城中心」だった日本の国家像が、徳川幕府により「江戸中心」へと変わっていた当時。

政治・経済・文化の中心は江戸になったものの、帝がいた京は、まだまだ強い潜在力を持っていました。

「土佐→長州」は、歩行距離にして「土佐→江戸」の1/3程度です。

江戸に向かった時は18歳だった龍馬は、27歳となっていました。

脱藩=大犯罪を敢行した龍馬:土佐から伊予の山々へ

Ne Historical Voyage
坂本龍馬脱藩之日記念館(新歴史紀行)

江戸遊学の際は、堂々と「土佐藩士」を名乗り、五街道でもどこでも大手を振るって歩いた龍馬。

坂本龍馬

今回は脱藩だから、
隠密ぜよ・・・

今回は、脱藩であり「藩から脱出」する犯罪を犯して、隠密行動となります。

「土佐藩士」として、土佐から長州へ向かう際は、土佐湾に面した平地を歩きますが、

坂本龍馬

とにかく、藩の
役人に見つかっては、ならない!

当時は、関所などが多数あり、土佐藩内で平地や整備された道を行くのは困難でした。

土佐藩役人A

おい、
どこへ行く?

仮に土佐藩の道を堂々と歩いていて、このように土佐藩の役人に尋問されたとしても、

坂本龍馬

ちょっと
伊予まで・・・

土佐藩役人A

何?
伊予へ?

土佐藩役人A

ちょっと待て!
藩庁に確認する!

「ちょっと伊予」とは言えず、隣国に行くには、「現代のVISA」が必要でした。

そのため、堂々と公道を歩くわけにはいかず、脱藩後はすぐに山奥に侵入した龍馬。

坂本龍馬

とにかく、
土佐藩を脱出しなければ・・・

脱藩は大犯罪であった当時は、龍馬自身のみならず、「龍馬の一家・坂本家」が犯罪者扱いとなりました。

坂本龍馬

姉の乙女たちにも
大変な迷惑をかける・・・

坂本龍馬

だが、それでも
とにかく脱藩ぜよ・・・

そして、土佐を無事脱出した龍馬は、伊予に入り、伊予の山奥を北西へ向かいました。

New Architectural Voyage
坂本龍馬・脱藩の道:愛媛県河辺町(新建築未来紀行)

現在の愛媛県河辺町には、「龍馬脱藩の道」の様々な伝承があります。

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坂本龍馬・脱藩の道:愛媛県河辺町(新建築未来紀行)

実際に歩いてみると、「人が歩く道」というよりも「獣道」に近いです。

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坂本龍馬・脱藩の道:愛媛県河辺町(新建築未来紀行)

こうしてみると「道らしい感じ」もありますが、鬱蒼とした森の中で方向感覚も分からない空間です。

「龍馬が脱藩の際に歩いた」のは、正式な記録がないので、「伝承・伝説」です。

道が多少違っても、似たような「道なき道」を突き進んだ龍馬。

それは、「道なき道を行く」のは「龍馬自身の精神」でもありました。

次回は上記リンクです。

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