戦闘型城郭の松本城〜初代松本城主石川数正の肖像・徳川家康の超重臣+兄的存在・関東=徳川家に近い位置〜|信濃・松本城3

前回は「松本城を信濃拠点とした武田信玄〜信濃中心地の深志城・「歴史の風格」を感じさせる太鼓門・樹齢140年の赤松の梁〜」の話でした。

目次

初代松本城主・石川数正の肖像:徳川家康の超重臣+兄的存在

New Historical Voyage
松本城(新歴史紀行)

かつて深志城と呼ばれた松本城は、石川数正が入城した際に名称が代わりました。

New Historical Voyage
戦国大名 石川数正(Wikipedia)

石川数正は、徳川家康(松平元康)が幼少の頃から、松平家に仕えていた「家康の懐刀」でした。

外交能力や政治力に長けた数正は、家康をずっと支え続けた存在でした。

名前生年
徳川 家康(松平 元康)1543年
酒井 忠次1527年
石川 数正1533年
松平・徳川家を支えた二強・酒井忠次と石川数正の生年
新歴史紀行
戦国大名 徳川家康(Wikipedia)

家康が松平元康という名前で、今川家に人質同然の扱いで駿河にいた頃から、

松平元康(徳川家康)

この元康は、
三河の大名なのだが・・・

石川数正

いつか、独立して
三河の国主に返り咲きましょうぞ!

ずっと、近侍として一生懸命家康に仕えた忠次と数正。

家康の16歳も上だった忠次は、文字通り「松平(徳川)家の家老」でした。

譜代の重臣であった数正もまた、忠次と同様に重きをなしましたが、

松平元康(徳川家康)

数正よ、
次の手はどうする?

石川数正

そうですね・・・
織田殿と結び、我が家を興しては・・・

10歳年上の数正に対しては、家康は、ずっと兄のように頼っていたのでしょう。

もともと、西三河に強い影響力を保持していた石川家は、徳川家の根幹であり続けました。

ところが、本能寺の変の後、小牧・長久手の戦いで徳川家が豊臣家と戦った後、

石川数正

これからは、豊臣の
時代だ・・・

石川数正

徳川家から
豊臣家に行きます!

徳川家の超重臣であり、家康の兄的存在であった数正は、突然、徳川家を出奔しました。

徳川家康

!!!!!

おそらく、家康は、当時「驚愕を超えて、驚天動地の思い」だったでしょう。

徳川家康

ま、まさか・・・
よりによって数正が・・・

「裏切りや謀反が日常茶飯事」だった戦国の世とは言え、

徳川家康

こ、
こんなことが・・・

徳川家にとって、「別格中の別格」の存在だった数正が「敵である豊臣(羽柴)」に移ったことは、

徳川家康

これでは、我が家の
機密が、全て秀吉に・・・

徳川家の機密事項が全て秀吉の手に渡り、「徳川家は丸裸になった」も同然でした。

1585年のことで、以後、石川数正は石川吉輝(吉は秀吉の偏諱)と名乗り、

石川吉輝

これからは、
秀吉様の家臣!

この後、秀吉が北条家を下し、徳川家が「関東に移封させられた」後に、

石川吉輝

松本城を
拝領した!

松本城10万石城主となったのが、石川数正(吉輝)でした。

戦闘型城郭の松本城:関東=徳川家に近い位置

New Historical Voyage
松本城(新歴史紀行)

その後、豊臣の時代は長くは続かず、徳川の時代となりました。

もし、石川数正が家康を裏切らず、ずっと「徳川家の超重臣」であり続けていたら。

おそらく、徳川幕府で「最も大老を輩出した」のは、石川家だったでしょう。

家名人数(名)
井伊6
酒井3
土井1
堀田1
徳川幕府の大老輩出家

徳川家で、最も重きをなした「石川+酒井」の内、酒井家は大老を3名出しました。

1593年に亡くなるまで、松本城主であり続けた石川数正(吉輝)。

歴代松本城主

1.武田家(深志城)

2.織田家(深志城)

3.徳川家(深志城)

4.石川家

5.小笠原家

6.戸田家

7.松平家

8.堀田家

9.水野家

10.戸田家(再度)

その後は、小笠原家が城主となり、最後は戸田家が城主となって幕末を迎えました。

New Historical Voyage
松本城(新歴史紀行)

松本城は知名度が抜群で、松本駅から近いこともあり、かなりの人気です。

予約しましたが、30分ほど待つことになり、その間は松本城の外観を楽しみました。

主たる五層の天守閣には、「隠れた一層(階)」があり、「実は五層」です。

New Historical Voyage
松本城(新歴史紀行)

石垣は重厚な作りで、松本城を築城した石川数正の築城術は、かなり高いレベルでした。

New Historical Voyage
松本城(新歴史紀行)

多数の鉄砲狭間、矢狭間が備えられた松本城は「戦のための城」であることを物語っています。

新歴史紀行
天下人・関白 豊臣秀吉(Wikipedia)
豊臣秀吉

北条を潰し、
家康を関東に追いやった・・・

豊臣秀吉

さて、家康が領していた
甲斐・信濃はどうするか?

関東移封前の、徳川家は、駿河・遠江・三河・甲斐・信濃を領土としていました。

このうち、駿河・遠江・三河は、「信長時代に徳川家の領土」でしたが、

豊臣秀吉

もともと、甲斐・信濃は、
武田を討滅した後、織田家のものであった・・・

豊臣秀吉

つまり、織田家を継いだ
領土であったのだ・・・

信長が横死する直前、甲斐・信濃は織田家の領土であった事実に対して、秀吉は、

豊臣秀吉

よしっ!
松本城は、石川にやろう!

豊臣秀吉

徳川を裏切って
私の配下になった石川だ!

秀吉は「家康への嫌がらせ」も考えて、石川数正に松本城を与えたのでしょう。

そして、松本城を拝領した石川数正は、関東に移った徳川家と「比較的近い位置」になりました。

おそらく、秀吉との外交交渉を「徳川家代表」として行っていた数正(吉輝)は、

石川吉輝

上方の文化に憧れたことも、
豊臣に移った理由の一つ・・・

三河や遠江とは全然違う、「大坂の雰囲気」に圧倒された数正(吉輝)。

石川吉輝

本当は、もっと
上方で領土を得たかった・・・

おそらく、「近畿周辺で領土を得たい」と思っていたでしょう。

そして、古巣である徳川家に近い、ということは、将来「攻撃される懸念」がありました。

石川吉輝

松本城は籠城戦を
想定して、強固に築城する!

この石川数正の思いから、松本城は「長期籠城が可能な、戦闘型城郭」となりました。

New Historical Voyage

この記事が気に入ったら
フォローしてね!

目次