前回は「「現存十二天守」と「天守国宝五城」の松本城〜平成に復元された太鼓門・明治新政府に思惑と廃城令〜」の話でした。
「歴史の風格」を感じさせる太鼓門:樹齢140年の赤松の梁

今年2025年に、久しぶりに松本城を訪問しました。
大学生の頃に訪問した際は落ち着いた雰囲気でしたが、インバウンドの影響もあり、大盛況でした。
松山城入口の二の門(太鼓門枡形)の次に、また大きな木造の門があります。
この門は、一の門、二の門、枡形からなる太鼓門枡形の「一の門」に当たります。

大きな丸太状の針を備え、それに直交して角形の梁が渡されている、重厚な作りです。

付近には、大きな切り株があり、その由来が説明されていました。

この切株は、1996年〜1999年に太鼓門が復元された際、梁に使用された赤松です。
樹齢140年の堂々とした赤松が生み出す雰囲気は、木造の城郭建築にピッタリです。
・姫路城(兵庫県姫路市)
・彦根城(滋賀県彦根市)
・犬山城(愛知県犬山市)
・松江城(島根県松江市)
・松本城(長野県松本市)
・丸亀城(香川県丸亀市)
・丸岡城(福井県坂井市)
・宇和島城(愛媛県宇和島市)
・備中松山城(岡山県高梁市)
・高知城(高知県高知市)
・弘前城(青森県弘前市)
・松山城(愛媛県松山市)
日本全国に「十二しかない」現存十二天守の一つ、松本城。
・姫路城(兵庫県姫路市)
・彦根城(滋賀県彦根市)
・犬山城(愛知県犬山市)
・松江城(島根県松江市)
・松本城(長野県松本市)
さらに、日本全国に「五つしかない」国宝指定の松本城。
松本駅から、ほど近くロケーションも良いため、

Matsumoto Castleは、
Japanの国宝の城らしい!
日本人のみならず、大勢の外国人を惹きつけています。
この「現存十二天守かつ国宝」の松山城における、太鼓門復元には、かなり配慮されました。
その結果が、この「樹齢140年の赤松」を使用した、かつての木造建築の作りです。
復元され太鼓門は、新しく綺麗ですが、どことなく「歴史の風格」を感じさせてくれます。
松本城を信濃拠点とした武田信玄:信濃中心地の深志城


太鼓門を入り、天守の方へ向かいます。
日本各地の城の中でも、「堀に映える美しい姿」が印象的な松本城。
様々な位置にある堀は、石垣や塀を美しく映しています。
そして、奥の方に、いよいよ天守閣が見えてきました。


多数の大名が城主となった松本城。
松本城の元の名前は、深志城であり、戦国時代に「武田家の信濃の中心地」として名を馳せました。





私が甲斐国主
武田晴信である!
父・信虎が苦労して甲斐を統一した後に、信虎を追放して甲斐国主となった若き晴信(信玄)。


諸説ありますが、当時は「関東地方の一角」であった甲斐。
甲斐の隣国は、駿河・相模・武蔵・信濃がありましたが、



甲斐から信濃へ
進出する!
当時は、守護であった小笠原家が弱体化し、様々な勢力が多数いた信濃に雪崩れ込んだ武田軍。



信濃を
ほぼ制圧した!





武田を
潰すのだ!
小笠原家や村上家を駆逐して、信濃を制圧した信玄に立ちはだかったのが、上杉謙信でした。



上杉との戦いの
最前線は、海津城!
そして、川中島で五度も戦った武田と上杉。
川中島第N次の戦い | 年 |
1 | 1553 |
2 | 1555 |
3 | 1557 |
4 | 1561 |
5 | 1564 |
本拠地である躑躅ヶ崎館から遠い「川中島の押さえ」として、海津城を整備した信玄。





海津城は、高坂昌信に
任せる!



はっ!
お任せを!
そして、武田四天王の一人である高坂昌信(春日虎綱)を城代として、海津城に配した信玄。
これで「北の守り」は万全でしたが、広い信濃において、「もう一つ拠点」が欲しいところでした。
この場合、「西の織田」か「南の徳川」に対する拠点になりますが、



海津城のように
最前線に拠点を築くよりも・・・



将来、信濃の西、南の
いずれにも侵攻できるように・・・



信濃の中心付近に
拠点を持とう・・・
おそらく、信玄は、このように考え「信濃中心付近の拠点化」を考えたのでしょう。
守護・守護代・国衆(地侍)出身 | 大名 |
守護 | 武田家・大友家・島津家・今川家 |
守護代 | 長尾家(上杉家)・朝倉家 |
国衆(地侍) | 三好家・織田家・徳川家・毛利家・北条家・(豊臣家) |
さらに、名門の守護出身の信玄にとっては、同じく「守護であった」小笠原家の拠点も気になりました。



深志城付近が、
かつての小笠原家の拠点・・・



場所も良いし、
深志城を我が武田の信濃の拠点に!





信春よ!
深志城を任せた!



はっ!
お任せを!
時期的には、「高坂昌信の海津城城代」よりも「馬場信春の深志城城代」の方が早いと思われます。
いずれにしても、「信濃の拠点」として「対上杉」と「中央部・前守護の拠点」を選んだ信玄。
後に松本城となる、深志城城主は信濃守護・小笠原長時から、甲斐守護・武田信玄に代わりました。
「代わった」と言っても、信玄が「取って代わった」のが実情でした。
そして、深志城(松本城)城主は、この後様々変わってゆきます。