前回は「徳川家康の大先輩・源頼朝の発想〜三河の国人だった徳川家・「大将軍」の新設求めた頼朝・「朝廷の香り」濃厚な太政大臣〜」の話でした。
京都中心の国家像の成り立ち:平城京から平安京と宮城の成立

日本において、初の「国家のかたち」を成したと言われる大和朝廷。
大和朝廷の位置に関しては、諸説あり「大和説」と「九州説」が有力です。
筆者は、大和朝廷は、やはり京周辺であり後の平城京があった「大和説」を取ります。
「九州説」に関しては、中国との関係で、「大和朝廷の最大の支部があった」と考えます。

聖徳太子の飛鳥時代には、「大和周辺の都市国家」が形成されつつありました。
一.和を大切にしなさい。(仲良くしなさい)
二.仏教を信仰しなさい。
三.天皇の命令には従いなさい。
八.官僚(当時は官僚・役人中心主義)は一生懸命仕事をしなさい。
十七.大事なことはみんなで相談して決め、一人で勝手に決めてはならない。
そして、有名な「十七条憲法」を制定した聖徳太子でしたが、「十七条憲法」は「憲法」ではなく、

みんなで、
仲良くしましょう!



みんなで、しっかりした
国づくりをしましょう!
内容からして、十七条憲法に記載されていることは「掟」のようなことでした。
・国家の統治権・統治手法に関する根本的な基礎的法律
・国家が国内の国民・人民、諸外国に対して行使する権限の基本原則
現代の「憲法」の概念は、欧米初であり、日本の正式な憲法は明治の大日本帝国憲法が初です。


平城京の後に、長岡京が計画されましたが、すぐに移転となり、794年に平安京が完成しました。
そして、この「平安京成立」によって、日本の宮城・宮都が完成しました。


その後、明治維新までは「天皇がいる京都中心の国家」が形成されることになりました。
清盛が目指した「新たな国家像」を否定した後白河法皇:源義仲の跳梁


そして、794年に完成した平安京の後、貴族の時代が続き、平氏の時代となりました。
平家は、明確な武家ですが、その依拠した権力は朝廷であり、「半公家(貴族)・半武家」の性格でした。



平家に非ずんば、
人に非図!
日本の中心権力を「平家一色」にしたような、平清盛の隆盛でしたが、



我が平家は最強だが、
公家の秩序の中にある・・・
平清盛は、隆盛を極めながらも気づいていました。
平家の存在が「旧態依然とした公家の秩序」に組み込まれていることを。
ここで、中国(宋)との貿易で、優れた文化や学問に加え、巨大な利潤を産むことに注目した清盛。
・当時の世界最先端の文化・学問・技術の流入
・貿易による巨大な利潤



さらに日宋貿易を
強化するために・・・



京を福原の大和田泊に
移転するのだ!
そして、1173年頃、貿易の中心地として京都から現在の神戸付近の福原を拠点化した清盛。
大和と京で「宮城を展開してきた」我が国の国家像を否定する行為でした。





宋との交易を
拡大するのは賛成だ!
太政大臣に就任し、絶大な権力を握った清盛でしたが、最高権力者は当然天皇であり、



政治の権力は
法皇である私だ・・・
朝廷の重要事項は、清盛の独断では決定不可能であり、後白河法皇の後押しが重要でした。



福原に遷都し、新たな
国家機能をつくるのだ!
794年の平安京から、この頃の1173年は、379年ほどしか経過していなかったので、



この清盛が新たな
国家像をつくってやるわ!



場合によっては、
この清盛が天皇に・・・
清盛の野心を見抜いた後白河法皇は、



清盛めが・・・
調子に乗りおって・・・
「自身や天皇・朝廷の影響力排除」を明らかに狙う清盛に激怒しました。



日宋貿易の拡大は、
良いが・・・



「法皇・天皇中心の
朝廷の国家像」は、当然継続だ!
ところが、清盛をバックアップしてきた鳳凰としては、



清盛の権力が巨大化しすぎ、
平氏の影響力が強すぎる・・・



誰か、平家を排除して、
私の言うことを聞く人間はいないか・・・
「平家を打倒してくれる」勢力を探し続けました。





この源頼朝が
源氏を率いて、平氏を倒しましょう!
ここで、ちょうどよく「平家の対抗馬」として源氏が登場しました。



よしっ!頼朝よ、
平家を倒して、朝廷の力を取り戻すのだ!



ははっ!
お任せを!
「後白河法皇の権力」を背景にして、源氏は一気に勢力を伸ばしました。





この義仲が、平氏を
倒して、法皇の時代を取り戻します!
一時は、木曾義仲が席巻して、「源氏のトップ」となりました。
現代「木曾義仲」と「源氏とは別」のような名前で呼ばれますが、歴とした「源義仲」であり、



この義仲こそ、
源氏の棟梁だ!
実際、頼朝は「源氏の一地方勢力の親玉」に過ぎず、ある意味では「義仲が正統派」でした。



源義仲か・・・
良さそうだな・・・
軍事力に長けた義仲軍は平家を蹴散らしましたが、「うまく行き過ぎた」ため、奢ってしまい、



この義仲が
新たなトップだ!



こんなはずでは
なかった・・・
今度は、義仲と後白河法皇の仲がギクシャクし始めました。
そもそも、後白河法皇の考えていた「自分の下僕となる権力者」が「都合が良過ぎた」のが現実でした。



この頼朝の方が、
後白河法皇のために尽くしますぞ・・・



義仲よりも
頼朝の方が良さそうだ・・・
超自己中心的な性格であった後白河法皇によって、最高権力者が次々入れ替わりました。
そして、それに伴って我が国の国家もまた、グラグラと揺らいでいたのでした。





武家政権とはいえ、
天皇に左右されるようではマズい・・・
この「後白河法皇に振り回され続けた」源平の政権は、後の徳川家康にとって「反面教師」となったのでしょう。