前回は「井伊直弼 15〜呆れるハリス〜」の話でした。
幕末最強の大言壮語の男
なあに・・・
維新のことはな・・・
おいらと西郷とで
全部やったのさ!
と言いのけたり、
薩長同盟・・・
あれはな・・・
あれは、
全部、龍馬がやったことだ!
と言ったり、とかく大言壮語が多く、見方によっては虚言癖のある男である海舟。
幕末の早い段階から、「幕臣でありながら、討幕側の薩長とつながっていた」と思われる海舟。
幕府側から見たら、「単なる裏切り者」でしかなく、大顰蹙を買っていたのでしょう。
「幕末維新の重要人物」というと、明治維新三傑である西郷・大久保・木戸、そして岩倉があがるでしょう。
「氷川清話」などの著作もあり、非常に重要な役割を果たした勝海舟。
超有名であり、超重要人物である割には、比較的地味にも感じます。
それは、「負けた側=幕府側」にいたからとも言えます。
実際には、明治新政府で参議・海軍卿などの重要ポストにもつき、「勝ち組側」にもいた勝。
「よく分からない存在」という形容詞がよく似合う男です。
新生日本の立役者の一人
この「よく分からない」点が、勝の地味な存在の大きな理由でしょう。
幕末維新を駆け抜けた志士や幕府側の人物たちの年齢を比較してみましょう。
上の表を見れば分かる通り、「圧倒的な兄貴分」である勝海舟。
比較的「兄貴分的存在」だった西郷よりも、さらに4歳年上です。
最後の将軍となった、第十五代将軍 徳川慶喜に至っては、勝の14歳年下。
勝にとっては、
慶喜様は
主君であるが・・・・・
まあ、
小僧だわな・・・・・
これが本心だったでしょう。
坂本龍馬と勝海舟:咸臨丸で米国へ
司馬遼太郎の「竜馬がゆく」で、一躍超人気人物となった坂本龍馬。
実際には、坂本龍馬は「具体的に何をやったのか不明な点が多い」人物です。
いずれにしても、幕末の最大の事件である「薩長同盟の立役者」の一人である坂本龍馬。
その坂本龍馬の師匠が勝海舟です。
なあに・・・
龍馬は最初は俺を斬りにきたんだ・・・
俺が、色々と世界情勢を
話したら、龍馬の奴、参ったらしくてな・・・
俺を斬ろうとした
剣を俺の前に差し出してさ・・・・
勝先生の
弟子にしてください!
こう言ったから、
面白いと思ってさ・・・
弟子にしてやったのよ・・・
こう語る勝ですが、この話が実話なはずがありません。
そもそも、勝海舟と坂本龍馬が出会ったといわれる1862年12月のこと。
その頃、坂本龍馬は土佐を脱藩して、単なる浪人=脱藩者だったのです。
当時「軍艦奉行並」という幕府の重鎮にいた勝。
軍艦奉行 木村摂津守と共に米国へゆき、日米修好通商条約の批准書を交わしてきました。
おそらくは、この頃から「大言壮語」癖が強かった勝のこと。
幕府内部において、「敵が最も多い人物」だったでしょう。
「敵が最も多い人物」であっても、幕府高官であることには変わりません。
その「幕府高官」に、なんの背景もない「脱藩者=無国籍者」竜馬が「会えること自体が奇跡」なのです。
この背景には、越前福井藩主であった「松平春嶽の推薦があった」とされています。
そもそも、なぜ「脱藩者=無国籍者」の竜馬が「越前福井藩主 松平春嶽の推薦」を得ることが出来るのか。
これも大きな謎です。
とにかく、謎多き大言壮語癖の勝海舟。
ある意味「江戸を救った救世主」でもあったのでした。