前回は「長尾景虎から関東管領上杉政虎へ〜関東の帝王・北条家に突如訪れた大嵐・越後守護代・関東国衆の北条からの離反・「中世的武力×中世的権威」の猛烈なパワー〜」の話でした。
鎌倉公方・関東管領の統治国
1560年に長尾から上杉となった長尾景虎。
今までは「越後守護代」長尾だったが、
今日からは「関東管領」上杉だ!
守護代という、甲斐守護・武田晴信(信玄)よりも格下の家柄でしたが、
一気に守護を飛び越えて、
関東管領だ!
当時の鎌倉公方の支配下であった「関東」は現在の関東より広い範囲でした。
関八州:相模・武蔵・上野・下野・常陸・上総・下総・安房
伊豆・甲斐
陸奥・出羽(1391年以降)
1391年以降、つまり上杉政虎の時代には陸奥・出羽も統治国に加えられた鎌倉公方。
広大なエリアを領する鎌倉公方は、別名「関東公方」とも言われる存在でした。
そのため、「主に関東周辺10カ国を統治していた」と考えられます。
そして、鎌倉公方を補佐する関東管領となった上杉政虎。
私は鎌倉公方の補佐役
である関東管領!
鎌倉公方の支配圏は相模・武蔵・上野・下野・常陸・上総・下総・
安房・伊豆、そして甲斐!
つまり、晴信が守護となっている
甲斐も私の統治国なのだ!
甲斐は
我が武田のものだ!
甲斐において、「守護と関東管領の立場の上下」は諸説あるでしょう。
「関東管領の方が上」と考えても良さそうです。
「関東管領・上杉家」の大義名分を掲げて、関東に乱入した、長尾景虎=上杉政虎(以下、謙信)。
関東の国衆・諸大名が大勢傘下に加わり、一気に大大名となります。
瞬間的に圧倒的大大名となった上杉家:大友・毛利を超えた版図
この時点で大きな版図を持つ大名としては、西の大友家と毛利家がいます。
瞬間的に上杉家は大友、毛利をも上回る、圧倒的大大名となります。
「関東管領という巨大な権威」+「最大版図を持つ大きな経済力」+「大勢の屈強な家臣団」を持つ上杉家。
関東は
私が治める!
甲斐も私が治めるから、
晴信には退いてもらおうか!
一気に意気揚々となった政虎。
まずは、関東八州に巣食う
北条を叩き出すのだ!
北条は、
滅ぼしてやる!
勢いに乗った、謙信は北条家の本拠地・小田原城を包囲します。
本拠地・小田原城まで、
攻め込まれるとは・・・
我が北条も
終わりか・・・
北条家は、絶体絶命のピンチを迎えました。(上記リンク)
まだ諦めんぞ!
小田原城に籠城だ!
小田原城を包囲した政虎は、城を陥落させることは出来ませんでした。
ううむ・・・
城が固いな・・・
それは、本拠地の越後春日山城から、一気にあまりに遠くまで出撃してしまったのが最大の理由です。
少し遠くまで
来すぎた。
そして、退陣時間が長く、将兵共に疲労がたまってしまい、厭戦気分が高まったのでしょう。
深く根付いていた室町幕府の権威
後の1568年には、織田信長が美濃から一気に将軍足利義昭を封じて、京へ入りました。
大義名分と
権威を手に入れたぞ!
室町幕府の組織はガタガタだが、
権威は残っている!
権威は
十分に使わせてもらうぞ!
上杉政虎が実行してみせた「中世的武力x中世的権威」の猛烈なパワー。
後から考えれば、この「中世的武力x中世的権威」が猛烈なパワーを持つことは自明かもしれません。
ところが、その時代を生きている人間は「自明な事実」に気づくことは少ないものです。
第二次世界大戦・太平洋戦争の時期は、ちょうど「戦艦から空母へ」の時代でした。(上記リンク)
ところが、この時代にこの「戦艦から空母へ」を明確に意識していた海軍将校は世界的に見ても少数派でした。
このように「後世から見たら明らかなこと」も、その当時の人には「分からないこと」が多いのが現実です。
関東で上杉政虎が見せた、
あの権威を縦横無尽に活かしたパワー・・・
政虎は鎌倉公方・関東管領の権威を
利用したが・・・
余は、本家本元の
将軍家の権威を活かすのだ!
深く根付いていた「室町幕府の権威」を最も活用したのは上杉政虎と織田信長かもしれません。
この時、六角家・三好家などと戦い、足利幕府領の復活と織田家の版図拡大を含めた信長。
織田家は、急速な勢いで占領地域を広げました。
それと比較しても、非常に広大な領土を非常に短時間で占領するに至った謙信。
山を次々と
超えるのは、堪える・・・
関東武士たちを従えるのも、
一苦労だ・・・
なんと言っても越後と関東の間の山々を超えての侵攻は、大変な苦労があったに違いないでしょう
次回は上記リンクです。