前回は「「最後の審判の日」状況だった安土〜覇王不在の「混乱と狂気の沙汰」・なぜ「新築間もない自邸焼き討ち?」・「理解不能」西洋人の視点〜」の話でした。
「信長公記」とフロイス「日本史」が映し出す真の「本能寺」

明智光秀の謀反の理由、秀吉の大返し、など、とにかく謎が多すぎる本能寺の変。
近年、当時の資料が新たに発見されることもありますが、真相は永遠に謎と思われます。
そして、これらの「本能寺の謎」に関しては、様々な歴史家、歴史作家が推測や描写をしてきました。

その中、信長家臣の太田牛一が描いた「信長公記」を読むと、「本能寺」の実像が見えてきます。

そして、とにかく数量、状況の描写が精緻であるルイス・フロイス「日本史」。
フロイス「日本史」には、「本能寺」当事者として彼らの「見たこと」「聞いたこと」が描かれています。
Frois木曜日の朝方、かの近江国出身の
一貴人は、事の経過を知って明智方に走り、



彼に従う証として、自邸に放火したが、
それは非常に美しい邸で城に接して建っていた。



我らはそれを神学校から望見していたが、
何のためか、



なぜそうするのかが
判らなかった。
フロイスらが「謎」であり「意味不明」だった、ある地侍の自邸放火。
とにかく、大混乱に次ぐ大混乱であり、信長を倒した明智光秀は、確かに京を制圧しました。



そして敵が到着し、殺戮を開始しており、
万物を焼き払うだろうと言っているのを聞き、



司祭や修道士らは、他のことを構っている時でもなく、
またその方法もなかったので、



とにかく、各々の生命、並びに神学校の
かの子供たちの生命を救出しようと



互いに
激励し合っていた。
「まさか」が連続して頻発していた戦国の当時においても、極大「まさか」だった「本能寺」。
その中、司祭、修道士たちは、懸命に、落ち着いて行動をしていました。



そして、同金曜日の朝、
大いなる動揺と言語に絶する慌ただしさの中に



修道院を出始め、盗賊の船に向かって
歩いて行った。



人々は日本人のように装い、銀の燭台、
振り香炉、聖杯、それに巡察使のヴァリニャーノ師が



残していった一揃いの濃紅色のピロードの
衣服を携帯した。



街路を通過する際の急ぎ方は、
まるですでに敵が彼らを襲撃しているかのようであり、



乗船するのに時間がなかったので、
互いに相手を待つようなことはせず、皆駆けて行った。
とにかく、盗賊を信用し、「盗賊の船」に一目散に駆けて行った、フロイスたち。
「本能寺」直後に京で横行した盗みと略奪:襲われた修道士や民衆


「本能寺」が勃発した1582年は、日本は戦乱の時代である戦国時代と呼ばれる時代でした。
その中、信長の圧倒的な力によって、平和な大都市であった京と安土。
その京と安土は、「本能寺」勃発によって、大恐慌状態に陥りました。



ジョアン・フランシスコ師は、長白衣を着たまま
後から付いて来ていたが、たちまち追剥ぎ共が彼を襲い、



(当時、市中にはこうした輩が横行して、
盗みと略奪の限りを尽くしていたので)、



銀を所持していると見て探索し、
手で身体を調べ始めたが、



袖が重いのに気がついたので、同司祭は
それが政務日祷書であることを示すために、



直ちに掛け合うと、まだ袖から取り出さない内に、
彼らはそれを彼の手から奪い、



他には何も発見できなかったので、
彼を置いて立ち去った。
ここで、フロイスは、重大な指摘をしています。
それは、「本能寺」直後に、京において、盗みと略奪を行う追い剥ぎが跳梁跋扈した事実でした。


つまり、明智軍は、当時の京における治安維持を怠っていたことが分かります。
本来であれば、天皇・朝廷がいて、征夷大将軍宣下を狙っていたであろう明智光秀。
そのためには、京の治安維持は最優先事項でした。
おそらく、明智軍が1,000人いれば、十分に治安維持できたであろう京。
1,000人までいなくても、鉄砲などで武装した明智軍なら500人で十分そうです。
現代と比較して、小さな都市だった京でしたが、それなりの広さがありました。
その中、「500人で治安維持が可能かどうか」は諸説ありそうです。
その一方で、「治安維持部隊に鎮圧・殺害される恐れ」があれば、追い剥ぎは出なそうです。
とにかく、明智光秀の視点は、安土へ、そして、北陸方面の柴田勝家に向かっていたようです。



ディオゴ・ベレイラ修道士は、
後方から来ていたが、



同僚たちがたどった道を間違え、
ある街路の終端に達したところ、



他の泥棒や追剥らの
掌中に陥った。



彼らは直ちに修道士を襲い、
頭上の顎の広い帽子と、



修道服の上に着ていた
着物を奪い、なおも彼を調べ、



盗みを急ぐあまり、長衣の脱がせ方が
判らず、前後からそれを引き裂いた。
とにかく、追い剥ぎたちは突然湧いて出て来たように登場し、跳梁跋扈しました。
ここで、謎を感じるのは、「追い剥ぎたちが、どこから登場したのか」です。
「本能寺」から数日しか経過していない当時、追い剥ぎ達は、京周辺を荒らし回りました。
織田信長の勢威が広く浸透していた、当時の京周辺は、追い剥ぎや盗賊は少なかったはずでした。
この観点から考えると、追い剥ぎの一部は「明智軍であった」ようにも感じます。
いずれにしても、修道士や民衆達にとって「治安最高」だった京は、一転して地獄となりました。



とにかく、坂本へ行き、
安土をも制圧する!
どうやら、明智光秀は、この頃、京を放っておいて、近江を拠点としていたようです。
「西への守り」を全く無視した光秀。
光秀は、京周辺に明智秀満か斎藤利三を残して、相応の舞台を配置しておくべきでした。
「京の大混乱」は、明智の暗い未来を当時すでに示唆していたようです。

