前回は「すぐ瀬田の橋修復した明智軍の圧倒的技術力〜王城の護衛者だった光秀・恐慌状態の安土の街・「都から四里」坂本城と「都から十四里」安土城〜」の話でした。
「最後の審判の日」状況だった安土:覇王不在の「混乱と狂気の沙汰」

正に「王城の護衛者」であり、近畿管領とも言うべき立場にあった明智光秀が起こした「本能寺」。

当時、宣教師の立場で、正に「京・安土にいた」フロイスは、当時の状況を生々しく記録しました。
Frois同所から三、四里距たり、かの湖の真中にある
一島に退去するのが良いと思われた。



すると、それを実行するために、かの島の一盗賊が一船を
持って来て、彼らをその島へ運ばせて欲しいと頼みに来た。
琵琶湖付近の「沖ノ島」に対比することを検討したフロイス。
そのフロイスたちを「助けよう」という盗賊が登場しました。



彼は我々に同情しているか
のように装い、



同島へ逃げる以外には助からないし、
助かる方法もない。



と言い、人々が異国人なので、人道的行為として
彼らを助けたがっているように見せかけた。
後に記述する通り、盗賊たちは「盗賊的行為」を行うため、フロイスは「騙された」風に書いています。



一同は、最後の策として、
同じ金曜日にそれを敢行することにし、



修道院には留守番として修道士のヴィセンテと
六、七名の日本人を残したまま、



その安土からオルガンティーの師は
二十八名の者と共に乗船した。
ここでも、フロイスの記述は精緻を極めます。
乗船したのは「二十八名」と明確であり、留守番は「ヴィセンテ+六、七名」と細かいです。
当時の大混乱の状況の中「六、七名」だけでも正確であり、「二十八名」と数え、記録したフロイス。
とにかく、数量をきちんと記録に残す姿勢は、筋金入りでした。



安土の市(まち)は、最後の審判の日を
示したようであった。



なぜなら、人々のある者は一方向に避難し、
他の者は、別の場所に身を寄せており、



婦女の声、子供らの泣き声、男たちの叫びなど、
民衆の混乱と狂気の沙汰は驚嘆すべきものがあった。



自らの生命を救うのに懸命のあまり、
家屋や家財は放置されたままであり、



かような事態が生ずるたびに人々は
市(まち)を去って行ったので、



我らの恐怖と不安は増大する一方であり、
昼夜の別なくそれらの日々は大混乱の中にあった。
とにかく、大混乱を超えて大恐慌状態となった「覇王・信長を突然失った」安土の街。
なぜ「新築間もない自邸焼き討ち?」:「理解不能」西洋人の視点


現在、安土城趾となっている安土城は、当時は、西洋にもない「世界一の城」と言われました。
1579年に完成し、そのたった3年後に惹起した本能寺の変。
当時、京・安土周辺の治安は極めて良かったと考えられ、民衆は一気に恐慌状態となりました。



木曜日の朝方、かの近江国出身の
一貴人は、事の経過を知って明智方に走り、



彼に従う証として、自邸に放火したが、
それは非常に美しい邸で城に接して建っていた。
この一貴人とは、山崎秀家と思われます。


信長公記において、山崎秀家の自邸放火が記録に残されています。



なんと!
光秀が謀反だと!



ええい!
安土の我が居宅を焼き払って、



我が本拠地の
山崎の城へ向かう!
山崎秀家の自邸放火の話を、上記リンクでご紹介しています。
ここで、フロイスは、山崎邸が「安土城に接していた」と記録した点に注目です。


信長が生んだ「新たな未来都市」安土城と安土の街。
当然ながら、「安土城に隣接する」場所に屋敷を構えるのは、「相応の立場」である必要があります。
「山崎」と、「山崎の合戦」の山崎を想起させる山崎秀家。
山崎秀家は、当時周辺の有力な地侍だったと思われます。



我らはそれを神学校から望見していたが、
何のためか、



なぜそうするのかが
判らなかった。
ここで、フロイスは、山崎の「自邸放火」を「理解出来なかった」と記録しました。
それもそのはずであり、わざわざ新築して間もない屋敷を「焼き払う」必要はなかった山崎。
ここで、山崎が「屋敷を焼き払う」決断をしたことは、当時の一つの側面を表していると考えます。



京周辺をずっと
支配し続けてきた明智・・・



そして、旧幕府とも接点を
持っている明智が、上様に謀反・・・



これは、明智の時代になりそうだから、
明智方へ行こう・・・



そのためには、「信長様の街」であり、
「信長様の時代」の象徴である安土との縁を切らねば・・・
おそらく、山崎秀家は、このように「信長様の時代」の象徴である安土との縁切り、によって、



そうすれば、明智光秀の
覚えもめでたいに違いない!
このように考えた結果、「意味不明の自邸焼き討ち」に走ったのでしょう。
このような発想は、いかにも「日本人的」でした。
フロイスの西洋人的視点から考えると、「何のためにわざわざ焼き討ちしたのか」が意味不明だった事実。
それは日本人的視点ではなく、西洋人的視点から見れば、ある意味で当然でした。
とにかく大混乱が続いていた、「本能寺」直後の京と安土でした。


