前回は「唯一人高台に上がって矢を射続けた太田牛一〜俊敏に出陣し続けた若き織田信長・強風活かした松明投げ込み戦術・若き織田軍団の強烈な迫力〜」の話でした。
「三回も賞賛の使者」で激励した織田信長:苛烈な若き信長の虚像

織田信長の一生を丹念に記録した信長公記。
信長公記は、豊臣秀吉が天下の時代に、信長の家臣だった太田牛一が編纂した説が有力です。
信長公記この時、二の丸入口にある高い建物の上に
太田牛一がただ一人で上がり、



無駄矢もなく、矢を射かけて
いたのを信長が見て、



小気味良い
見事な働きである!



と三度も使いの者を
よこした。



賞賛して、
知行を増やしてくれた。
美濃攻略戦において、堂洞砦攻撃の際に太田牛一は大活躍しました。
時は1564年であり、正に織田家勃興期でした。
| 名前 | 生年(一部諸説あり) |
| 林秀貞 | 1513年 |
| 柴田勝家 | 1522年 |
| 滝川一益 | 1525年 |
| 太田牛一 | 1527年 |
| 佐久間信盛 | 1528年 |
| 織田信長 | 1534年 |
| 丹羽長秀 | 1535年 |
| 羽柴秀吉 | 1537年 |
織田信長よりも7歳も年上であった太田牛一は、当時38歳(数え年)でした。
当時の38際にしては、最前線で実に頑張った太田牛一。
そして、その太田牛一に対して、「三回も賞賛の使者を送った」織田信長。
後世の視点から考えると、織田信長が「三回も賞賛の使者を送る」ことは少し考えにくいです。


司馬遼太郎などの歴史小説作家が描く織田信長は、常に「上から目線」です。
ところが、真実の織田信長は、家臣をきちんと思いやり、織田家を適切に統率していたのでした。
信長公記を読むと、織田信長の実像がところどころに散りばめられています。



午の刻(正午前後)に砦に取り付き、
酉の刻(午後六時頃)まで攻め続けて、



すでに暮れ方に
なった。
午後六時に近くになり、周囲は暗くなってゆく中、信長率いる若き織田軍団は攻め続けました。



川尻秀隆が本丸へ
突入し、



丹羽長秀が続いて
突入したが、



敵方、岸勘解由左衛門・多治見一党の
働きぶりも並々ならぬものがあった。
ここで、織田家の生粋の重臣とも言える川尻秀隆が登場しました。
織田家生粋の重臣・川尻秀隆の奮戦:龍興登場と上手く撤退した信長





信長様、
この川尻秀隆、本丸に突入しました!



秀隆、
よくぞやった!
太田牛一と同年の1527年に生まれた川尻秀隆。
川尻秀隆は、武田討滅戦の後に甲斐国主になる程の人物であり、生粋の織田家重臣でした。
織田家重臣というよりも、ずっと信長に従っていた「織田家超重臣」だった川尻秀隆。
ところが、本能寺の変の直後、武田残党らが蜂起し、討ち取られてしまった川尻秀隆。
川尻が甲斐国主であったのは、ほんのわずか二、三ヶ月ほどでした。
このこともあり、歴史小説では、取り上げられることが、本来よりかなり少ない川尻秀隆。
ところが、川尻秀隆は織田家生粋の重臣であると同時に、織田家筆頭の猛将と言っても良い存在でした。



しばしの戦いに城内の兵は入り乱れ、
敵味方の見分けもつかないほどだったが、



ついには大将格の者は
皆打ち果たした。



その夜、信長は加治田へ行き、
佐藤紀伊守・右近衛門二人のもとへ出かけて対面し、



そのまま右近衛門のところに
宿泊した。



父子は感激の涙を流し、
「ありがたい」と言うことさえ、



なかなか言葉に
なりにくいほどだった。



おう、
右近衛門。



今日は、ここに
泊まらせてもらうぞ。



あ、ありがたき
しあわせ。
若き織田信長は、家臣のもとを訪問し、そのまま宿泊し「信用している」ことを示しました。
これは、「わざわざ宿泊した」のであり、信長は、こうしてお互いの信用を築いていたのでした。



翌二十九日、
堂洞の山下の町で首実検し、



引き揚げようとした時、
関方面から長井道利が、



また井口から斎藤龍興が
攻めかかって来た。
連戦連勝だった織田軍に対して、遂に斎藤軍は、当主であった斎藤龍興が攻め込んできました。





これ以上、信長めの
いいようにさせてたまるか!


超有名な斎藤道三の孫にあたる(血筋は諸説あり)斎藤龍興。


そして、斎藤道三の子(実子ではない説が有力)であった斎藤義龍の実の子であった斎藤龍興。
斎藤龍興は、この後、信長に敗れてしまうこともあり、語られることが少ないです。
1547年生まれ(諸説あり)の斎藤龍興は、織田信長の13歳年下でした。
決して暗愚ではなく、むしろ、当時の戦国時代において、少なくとも平均的な能力を持っていた龍興。



敵の軍勢は
三千以上あった。
当主の斎藤龍興が三千以上の軍隊を率いて、乗り込んできました。



信長の軍勢は、
わずか七、八百に過ぎなかったろう。
対する、織田信長本軍は、「わずか七、八百」でした。



負傷者・死者が
多数出た。
「七、八百 vs 三千」で、野戦ではどう考えても敗北必至でした。



撤退したところは
広い野原であった。



信長はまず陣容を立てなおし、
負傷者・使用人たちを退かせ、



追撃して来る敵に
足軽を出して備えるよう、



馬を乗り廻して指示し、
易々と軍勢を撤退させた。



敵は、



残念な
ことをした。



と言った
そうである。
ここで、信長は「決戦をする」ことを徹底的に避け、一気に撤退しました。



我が軍勢は、
続けての戦いに疲れ果てておる・・・



そして、敵は新手であり、
四倍ほどの軍勢・・・



龍興も出て来ておるから、
かなり士気も高いだろう・・・



よし、ここは
速やかに撤退だ!
このように判断したであろう織田信長。
「上手く撤退する」ことは、極めて困難なことであります。
その中、すでに「軍神になりつつあった」織田信長は、小気味良いほど上手く撤退したのでした。

