美濃侵攻緒戦で大活躍「米五郎左」丹羽長秀〜敵の給水源遮断戦略・美濃と尾張の国境にあった犬山城辺の川・美濃の一角が織田家へ〜|美濃攻略戦3・信長公記28

前回は「1564年ようやく尾張制した信長〜小牧山移転の最大目的=尾張北部制圧・「桶狭間」後も織田家同族と争った信長・かなり貧弱だった信長の地盤〜」の話でした。

目次

美濃と尾張の国境にあった犬山城辺の川:美濃の一角が織田家へ

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織田信長の本拠地移転(新歴史紀行)

歴史小説などでは、1560年頃までに信長が「尾張全土を制圧」とすることが多いです。

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桶狭間の戦い(Wikipedia 歌川豊宣画)

そして、その上で、今川義元軍を迎え撃って「桶狭間の戦い」となった流れで描写されることが多いです。

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信長公記(太田牛一著、中川太古訳、新歴史紀行)

ところが、信長公記によると、今川軍侵攻に合わせて、尾張南部の山口親子が今川方になりました。

尾張・知多郡一帯が、一時的に今川領となった話を、上記リンクでご紹介しています。

尾張守護代・織田家の分派

・尾張北四郡:岩倉織田家(伊勢守)

・尾張南四郡:清洲織田家(大和守)

さらに、上の通り、織田信長の父・信秀は尾張南四郡を支配下にする清洲織田家の家老でした。

つまり、「守護代ですらなかった」のが信長の織田家であり、実は尾張統一には時間がかかりました。

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この二人の手引きで、丹羽長秀は
犬山へ攻め込み、城をはだか城にした。

信長公記

四方から鹿垣を二重、三重に結い
巡らして犬山城を包囲し、警固に当たった。

そして、ついに尾張北方の犬山城を包囲して、攻略に成功した織田信長。

この時、1564年であり、「桶狭間」から四年が経過していました。

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ところで、敵、美濃方の城は、
宇留摩城・猿啄城というのが並んで二カ所、

信長公記

犬山の
川向こうにあった。

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犬山城(新歴史紀行)

現代も、犬山城の付近には大きな川が流れており、ここが尾張と美濃の国境でした。

信長公記

そこから五里(約20キロメートル)奥の
山中、北美濃の加治田というところに、

信長公記

佐藤紀伊守・息子右近衛門という
父子が居城していた。

信長公記

ある時、加治田の佐藤父子が岸良沢を
使者として派遣し、

岸良沢

信長公を一筋に
頼りと致します。

信長公記

と、丹羽長秀を
介して申し出た。

いよいよ、美濃の一角が、信長に臣従を誓い、織田家の美濃侵攻が開始しました。

美濃侵攻緒戦で大活躍「米五郎左」丹羽長秀:敵の給水源遮断戦略

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織田家重臣 丹羽長秀(歴史群像シリーズ 図説・戦国武将118 学研)
丹羽長秀

なにっ、
我が織田家に仕えたいと!

丹羽長秀は、このように言ったかもしれませんが、実際には「丹羽長秀の調略」と考えます。

つまり、犬山城を包囲の上攻略した丹羽長秀は、美濃の一角を調略で切り崩した、と考えます。

信長公記

信長はかねがね、美濃の国内に
味方が欲しいと願っていた時のことであったから、

信長公記

喜ぶこと一通りでは
なかった。

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戦国大名 織田信長(歴史群像シリーズ 図説・戦国武将118 学研)
織田信長

まず、兵糧を確保して、
蔵に蓄えておきなさい。

信長公記

と言って、黄金五十枚を
岸良沢に渡し、先方へ贈った。

尾張のほぼ全土を制圧し、いよいよ1564年、信長は「美濃の一角」を領有するに至りました。

信長公記

信長は、木曽川を越えて、
美濃国へ進攻した。

信長公記

敵城宇留摩の城主は
大沢基康、隣の猿啄の城主は多治見修理といい、

信長公記

両城は、木曽川に接近して、
犬山の川向こうに並んで持ちこたえていた。

織田信長

よしっ!
美濃へ侵攻する!

いよいよ満を持して、美濃侵攻を決断した信長。

信長公記

一方の城から十町(約1キロメートル)、
他方の城から十五町(約1.5キロメートル)離れたところに、

信長公記

伊木山という
高山がある。

信長公記

信長は、この山に登って
砦を堅固に造り、両城を見下ろして居陣した。

若い頃、戦略の基本を重視した信長は、「付け城戦略」によって美濃攻略を開始しました。

信長公記

宇留摩の城は、信長がすぐ近くに陣を構えたので、
とても守りきれないと判断して城を明け渡した。

信長公記

猿啄の城は、木曽川に臨む
高山にある。

信長公記

城の上に、大ぼて山という、
草木の茂った高所がある。

信長公記

ある時、大ぼて山へ丹羽長秀が
先駆けで攻め上がり、

信長公記

兵を上らせて、猿啄城の
給水源を占領した。

丹羽長秀

猿啄城の
給水源を占領したぞ!

信長公記

上下から攻められて、猿啄城はたちまち破綻し、
城兵は降参して退去した。

美濃侵攻戦の緒戦は、丹羽長秀が大活躍しました。

信長が「高い山を占領」したと同様に、丹羽長秀は「敵の給水源を占領」という王道を走りました。

名前生年(一部諸説あり)
林秀貞1513年
柴田勝家1522年
滝川一益1525年
佐久間信盛1528年
織田信長1534年
丹羽長秀1535年
羽柴秀吉1537年
織田信長と織田家重臣の生年

とかく、軽めに扱われることが多い、織田家の重臣であり、信長の弟分だった丹羽長秀。

その実像は巨大であり、「織田家になくてはならない」存在でした。

後に「五郎左」と呼ばれ「米の如く、なくてはならない存在」であった丹羽長秀。

丹羽長秀

私は、若い頃からずっと
信長様のお役に立ち続けたのだ!

信長公記では、若き丹羽長秀の活躍が、粛々と、緻密に描かれていました。

そして、信長の美濃侵攻戦が続きます。

新歴史紀行

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