信長「小牧山移転」前「ど田舎架空移転」戦略〜若き覇王と家臣団・海に広く面し「三カ国のみ隣接」国力豊かな尾張・信長の大いなる幸運〜|美濃攻略戦1・信長公記26

前回は「船で桑名から熱田に逃走した徳川家康〜謎の家康「伊賀越え」と航路の謎・世界初の豪華絢爛「安土城」守った蒲生賢秀・「金銀散りばめた」城〜」の話でした。

目次

海に広く面し「三カ国のみ隣接」国力豊かな尾張:信長の大いなる幸運

新歴史紀行
岐阜城天主閣から(新歴史紀行)

前回まで、信長公記の記録をもとに、桶狭間の戦い、本能寺の変の真相を探りました。

今回からは、織田信長の飛躍のきっかけとなった美濃攻略戦の真相を探りたいと考えます。

新歴史紀行
戦国大名 織田信長(歴史群像シリーズ 図説・戦国武将118 学研)
織田信長

今川義元を
討ったぞ!

若き織田信長の最初の大いなる飛躍は、桶狭間の戦いでした。

新歴史紀行
桶狭間の戦い(Wikipedia 歌川豊宣画)

そして、一時は、山口親子など、尾張国内から今川家に離反する家臣がいたものの、

織田信長

これで、尾張国内は
ほぼ全土掌握した!

今川義元を討滅したことにより、若き織田信長は、肥沃な尾張を概ね掌握するに至りました。

この時点で、約30〜35万石(著者推測)ほどの大名に成長した織田家。

ついで、三河で今川家から離反した、徳川家康と同盟を締結しました。

織田信長

東の三河とは同盟を
締結した。

織田信長

次は、北の美濃か、
西の伊勢か・・・

織田信長が幸運であったのは、「山城に比較的近く、国力が高い尾張」を地盤にしたことでした。

更にもう一点、織田信長が幸運であった点があります。

New Historical Voyage
織田信長の本拠地移転(新歴史紀行)

それは、尾張が海に大きく面していた点でした。

当時の日本の国において、「海に面する国」は多数ありました。

知多半島がグッと海側に出ている尾張は、海との国境線が長い大きな特徴がありました。

この「海との国境線が長い」事実もまた、尾張の津島湊が栄え、経済力が強かった理由の根幹でした。

更に、海以外に面していた国が、3つしかなかった点も大きなメリットだった尾張。

当時の国を見てみると、数カ国と面する国が多数であり、「3つしか面しない」のは少数です。

その中で、「面する国の一つ」であった三河と同盟締結した信長の戦略は、冴えていました。

名前生年
毛利元就1497年
北条氏康1515年
今川義元1519年
武田信玄1521年
長尾景虎(上杉謙信)1530年
織田信長1534年
島津義弘1535年
羽柴(豊臣)秀吉1537年
徳川家康1543年
武田勝頼1546年
戦国大名の生年

そして、桶狭間の戦いで大勝利した織田信長は、虎視眈々と美濃と伊勢を狙いました。

美濃と伊勢を同時に睨みながら、美濃に集中して「先に美濃を奪取」することに決めた信長。

信長「小牧山移転」前「ど田舎架空移転」戦略:若き覇王と家臣団

New Historical Voyage
信長公記(太田牛一著、中川太古訳、新歴史紀行)
信長公記

信長には優れた
計略があった。

信長公記

清洲というところは、
尾張国の真ん中で富裕な土地柄であった。

信長公記

ある時、身内の衆を全員同行させ、
山中の高山、二の宮山に登った。

織田信長

この山に
築城しよう!

信長公記


言い出し、

織田信長

皆ここへ
家を移せ!

信長公記


命令して、

織田信長

ここの峰は〜、
あすこの谷は〜が家を造れ!

信長公記

と屋敷地の
割り振りをした。

信長公記

その日は帰り、
また再び出かけて行って、

信長公記

更に先日の趣旨を
命令した。

織田家臣H

この山中に清洲の家を引っ越さなくては
ならぬとは、難儀なことだ。

信長公記

と言って、
上の者も下の者も大いに迷惑がった。

突然、山中という、地名からして「山の中」への本拠地移転を命令した信長。

信長公記

そのようなことがあった後。
信長は今度は、

織田信長

小牧山に
移ろう!

信長公記


言い出した。

信長公記

小牧山へは麓まで川が続いており、
家財道具を運ぶのに便利な土地である。

信長公記

皆わっと喜んで、
移転をした。

織田家臣H

小牧山なら、川があるし、
移転は楽だ!

織田家臣H

しかも、山中ほど
田舎ではないしな!

信長公記

これも最初からそう言い出したら、
ここへ移転することを迷惑がったのは、

信長公記

二の宮山の場合と
同じだったであろう。

つまり、織田信長は、「最初から小牧山への移転を決めていた」のでした。

織田信長

美濃を攻略するためには、
美濃の近くに本拠地を移転するのだ!

織田信長

様々検討した結果、
小牧山が良さそうだ・・・

織田信長

だが、小牧山への移転は、
家臣どもの反発が強いだろう・・・

織田信長

ならば、一度、更に不便な地への
移転を命令し、その後に小牧山に変更すれば・・・

織田信長

家臣たちは
受け入れやすいだろう・・・

若き織田信長は、こう考えたのでした。

New Historical Voyage
清洲城(新歴史紀行)

ところが、長らく尾張の首都であり、当時は川に囲まれ、富裕な地であった清洲。

いくら「美濃攻めに有利」と言っても、わざわざ本拠地を移転するのは、不合理すぎる発想でした。

莫大な経費がかかり、時間もお金も労力もかかるため、「良いことはない」からでした。

しかし、信長にとっては、この「超デメリットこそが最大の戦略」でした。

この「家臣への配慮」もまた、従来の「俺様的信長像」とは異なる実像でした。

若い頃から「帝王のように振る舞っていた」かのように描かれることが多い織田信長。

その実態は、「家臣の気持ちに配慮し続けていた」のでした。

New Historical Voyage
織田信長の本拠地移転(新歴史紀行)

そして、いよいよ小牧山に移転した信長は、美濃攻めを本格化したのでした。

ただし、もう少し信長公記を読み進めると、信長の「尾張統一戦」が続いていたことが分かります。

次回は、「桶狭間」後の信長「尾張統一戦」の話です。

New Historical Voyage

この記事が気に入ったら
フォローしてね!

目次