前回は「異様に実戦的・早期育成の海兵教育〜海兵卒業生たちの結束力守り続けた級会・「英国海軍流の貴族主義」違和感感じた草鹿龍之介・全て英国式の海軍〜」の話でした。

「初めての酒」で大失態演じた草鹿龍之介青年たち:教官「自らの責任」

草鹿龍之介卒業前、三学年は、兵学校練習船
二河川丸にて、瀬戸内巡航に出た。
現代の視点から見れば、「厳しい」を遥かに超えた「ウルトラ超スパルタ教育」だった海軍兵学校。
たった3年間で、「優秀な若者」を「海軍士官」に育て上げる教育でした。
入った当初から「鉄拳、鉄拳」の連続であり、内部では常に「成績順位」の争いでした。
そして、いよいよ草鹿龍之介青年は1913年、海軍兵学校を卒業する時期となりました。



その後、生徒としての最後の
級会を、神宮横の田舎料理屋で開いた。



若い教官も
一緒であった。
「卒業の宴」が始まろうとしていました。



御膳の上に茶呑茶碗がおいてあり、
感じが薬罐の茶をついで回った。



何の気なしに呑んでみたら、
酒であった。



前述した如く、兵学校は
禁酒である。



しかし、教官も一緒であったので、
皆呑んだ。



矢張り酒は美味いので、
一杯が二杯になり、三杯になり、



遂に軍歌を歌うやら、
頭のはげた教官の頭を、



舐める奴も出てくると言う
大騒ぎになった。
現代でも、酒を飲みたての大学生初頭の頃は、ついつい「飲み過ぎて大騒ぎ」になります。
もちろん、海軍兵学校生徒も、その点は現代の大学生と同様で、「大いに大騒ぎ」になりました。



然し、そこは
兵学校生徒である。



帰艦時には皆整然と帰艦したのであったが、
帰校後、この事が教頭校長の耳に入り、



大問題を惹起し、三学年全員黒帽(禁足)になる
ということまで発展した。



この時、同席した若き教官、米村大尉(後中将)、
和田大尉(後中将)等が、自ら校長の前にゆき、



生徒を罰する前に、
自分達を罰して貰いたい。



と、
申し出た。
何事も「行き過ぎ」は良くないことですが、「若気の至り」を容認してしまった、と教官が反省しました。
この点、日頃は厳しかったであろう教官達は、実に「海軍将官らしさ」を持っていました。
現代の20歳〜22歳頃の若者の失態は、「自分たちの責任である」と校長に申し出たのでした。
草鹿「万感胸に迫る」乃木希典大将殉死:海兵卒業と明治天皇の崩御





山下源太郎
校長は、



若気の至りで
ある。



自後この様なことが
ないように様気を付け!



と言われて、
生徒全員黒棒にならなかった。
後に連合艦隊司令長官となった山下源太郎校長は、「お咎めなし」の裁定を下しました。



(山下校長も
お酒が好きであった。)
草鹿龍之介は()書きで、わざわざ目立つように(山下校長もお酒が好きであった。)と書きました。
これは、「酒好きの山下校長」だからこそ、「酒の失敗を容認した」ということでしょう。



私達は、心中この若き教官達の態度に、
少なからず感銘を受けたこと勿論であった。


「一海軍士官の半生記」には、加藤寛治教頭兼監事長は登場しませんが、



まあ、教官もああ言っているし、
初の酒だからな・・・



やむ得ない面も、
ありますな・・・
こんな感じで、山下校長は加藤教頭と相談したのでしょう。、
加藤寛治は、後に連合艦隊司令長官、軍令部総長(部長)を務める人物です。



卒業前になると、
色々と嬉しいことがあった・



錨と桜の大きな帽章の付いた
将校の帽子や、深かゴムのキットの靴や、



海軍マント等々が支給され、
軍服や通常礼装も袖章の付いた候補生の服装に直され、



上等の毛布各自三枚を
支給された。
いよいよ、帝国海軍少尉候補生として、認められた草鹿龍之介青年たち。



授業が済んで、寝室に飛んで帰り、
衣服箱の蓋を開け、



密かに悦に入ったもので
あった。



大正二年(1913年)十二月十九日、
兵学校を卒業し、



海軍少尉候補生を命ぜられ、同時に
吾妻乗組を命ぜられた。



私共在学中、明治四十五年七月三十日、
明治天皇が崩御された。



そして、九月十三日、御大喪が
行われた。


明治天皇は、後の大正天皇、昭和天皇とは少し異なり、かなり自ら率先して帝国を動かした天皇でした。
海外においても、明治天皇は、日露戦争などへの積極的関与が強く指摘されています。
徳川時代から、「新たな朝廷の時代」を生み出した明治天皇は、極めて強きリーダーでした。
草鹿龍之介が海兵生徒の間に、その明治天皇が崩御され、一つの時代が終わったのでした。



私共三学年生徒は、
軍艦満洲に乗艦、



品川沖に到着上京、
霊舎を御送りした。



その日、乃木大将夫妻の殉死の
報を知り、



万感胸に迫る
思いをした。



三年間
喪に服した。


昭和から大正に切り替わる時代の節目に、夫人と共に殉死した乃木希典大将。
乃木大将の話は、当時、大日本帝国国民の「全員が知る」状況と言っても良い程有名になりました。
小学校などでも、「乃木大将」が教えられ、「軍人の一つの模範」とされた時代でした。
現代の視点から見て、この点は賛否両論あります。
いずれにしても、「明治から大正」となった時代に、海軍少尉候補生となった草鹿龍之介青年。
ここから、海軍士官として羽ばたいてゆきます。

