西南戦争の運命決した「神風連の乱」〜消えた薩摩巨頭種田政明長官・久坂も高杉も大村も消えた長州・明治政府の認識「薩摩の江華島事件」〜|伊藤公直話28・エピソード

前回は「「長州ファイブ」井上馨の心意気とプライド〜頭脳派官僚集団「伊藤軍団」の誕生・「長州軍団幹事長」伊藤俊輔・「内閣分離」阻んだ江華島事件〜」の話でした。

目次

久坂も高杉も大村も消えた長州:明治政府の認識「薩摩の江華島事件」

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江華島事件(Wikipedia)

1875年、朝鮮とのトラブルに発展した江華島事件。

「事件」と言う名前ですが、「江華島事変」に近い状況でした。

日本の軍艦・雲揚号が、朝鮮付近を測量中に、朝鮮と戦闘となった事件でした。

日本側戦死1名、朝鮮側戦死35名となり、朝鮮側に大損害を与えた事件でした。

双方で36名もの戦死者が出る、大事件となり、日本側も調停に苦労しました。

薩摩の黒田清隆を正使、長州の井上馨を副使として、朝鮮に派遣しようとした伊藤博文でした。

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井上馨 大蔵大臣(国立国会図書館)
井上馨

副使なんか
嫌だ。

名前生年所属
岩倉 具視1825公家
西郷 隆盛1827薩摩
大久保 利通1830薩摩
木戸 孝允1833長州
井上 馨1836長州
板垣 退助1837土佐
山縣 有朋1838長州
黒田 清隆1840薩摩
伊藤 博文(俊輔)1841長州
明治政府の大物たち

プライドが高かった井上馨は、「4歳年下」の黒田清隆の下の副使案を蹴り続けました。

井上馨

それに木戸さんとの
約束もある!

伊藤博文

これは、もはや木戸さんと
直接ケリをつけるしかない・・・

幕末維新の十代から、「いつも一緒に行動」してきた伊藤博文と井上馨。

長州の機密にも関わり続け、伊藤博文と井上馨しか知らないことも多数あったでしょう。

いわば「莫逆の友」であり続けた伊藤博文と井上馨。

だからこそ、井上馨は、「年下の黒田清隆の下風」を堂々と拒否し続けたのでした。

ならば、井上馨を正使として、黒田清隆を副使として「正副を変更」案も考えられました。

ところが、江華島事件の最高責任者は、薩摩出身の井上良馨でした。

そのため、「薩摩の問題は薩摩が片付けるべき」という観念が支配していた明治政府。

いわば、「明治政府の体制」が表出した事件でした。

伊藤博文

今まで、貴君に何と言っていたか知らぬが、
私はぜひ勧めてやります。

木戸孝允

分かった。
君の思う通りにするが良い。

伊藤博文

ようやく公の同意を得て、
それからだんだんと井上を説いた。

伊藤博文

ついに井上は副使となって朝鮮に行き、
江華島事件も結末をつけて帰ったが、

伊藤博文

一時は、
なかなか面倒であった。

とにかく、若き頃は柔軟性抜群だった木戸孝允は、病気のため極めて頑固になっていました。

木戸の病気は、幕末維新期に「無理をし続けた」のが根幹であると考えます。

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長州藩の軍事の柱:左上から時計回りに、村田蔵六(大村益次郎)、桂小五郎(木戸孝允)、久坂玄瑞、高杉晋作(国立国会図書館、Wikipedia)

幕末、久坂玄瑞は禁門の変で自決、高杉晋作は病死しました。

そして、明治初期には大村益次郎が暗殺され、次々と周囲から人がいなくなっていた木戸。

木戸孝允

久坂も高杉も
大村もいなくなってしまった・・・

木戸孝允

・・・・・

この頃、43歳(数え年)であった若き木戸。

ところが、この頃の木戸は、どうにも疲労感や虚無感に支配され続けていたようです。

西南戦争の運命決した「神風連の乱」:消えた薩摩巨頭・種田政明長官

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明治天皇(Wikipedia)
伊藤博文

それから、明治九年に
奥州御巡幸となった。

伊藤博文

その時、木戸公は参議をやめて
内閣顧問となった。

伊藤博文

岩倉公と木戸公とは、
御供となったが、

伊藤博文

大久保公は内務卿で、
御先供ということであった。

伊藤博文

大久保公は内務卿で、
御先供ということであった。

江華島事件を何とか片付けた明治政府は、明治九年(1876年)に明治天皇の御巡幸を実行しました。

後世の視点から考えれば、「西南戦争の前年」でしたが、小康状態だった明治政府。

伊藤博文

一体、木戸公は三条公の方に
心服をしておられた。

伊藤博文

この奥羽御巡幸の御供の途中でも、
種々話合われて、益々双方の諒解を深めるようになった。

伊藤博文

それから、聖上には青森から御船に召されて
御巡幸になって、

伊藤博文

北海道・秋田県だけ残して、
御還幸あらせられた。

明治維新となり、明治天皇は、ほぼ日本全国を巡幸しました。

この「国家のトップが様々な場所へ向かう」ことは、徳川幕府時代には全くなかったことでした。

こうして、明治政府は「徳川から明治の時代」の理解を、大日本帝国国民(臣民)に広めました。

伊藤博文

それで、この御巡幸にならなかった地方だけ、
更に巡回しろ、という御沙汰で、

伊藤博文

三条公と山縣と予と寺島が
行った。

伊藤博文

これには、陸奥田の尾崎三郎だのも
随行していた。

伊藤博文

それで、北海道を巡回して
帰途、福島に泊まっていると、

伊藤博文

熊本(神風連)騒動の
電報に接した。

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神風連の乱(Wikipedia)

明治9年から10年に続いた明治政府への反乱の口火を切った「神風連の乱」が1976年10月勃発しました。

「伊藤公実記」においては、「神風連」に対しては、「起きた事実」のみ記録しています。

熊本の敬神党が約170名ほどで決起し、一時は熊本鎮台を占領した「神風連の乱」。

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西南戦争時の熊本鎮台司令部:中央に谷干城長官、後列中央に児玉源太郎(Wikipedia)

「神風連」では、乱を聞きつけた児玉源太郎少佐らが駆けつけて、一気に一日で鎮定しました。

翌年、西南戦争では、西郷軍と死闘を続けた熊本鎮台と児玉源太郎。

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種田政明 熊本鎮台司令長官(Wikipedia)
種田政明

う、
うぐっ・・・

極めて短期間に鎮定された「神風連」でしたが、種田政明 熊本鎮台司令長官は殺害されました。

いかに、明治六年の政変によって「薩摩系軍人がゴッゾリ消えた」としても、熊本鎮台長官となった種田は、

大久保利通

種田か・・・
奴ならば鎮台長官として適任だろう・・・

相応の能力を政府から認められていたのでしょう。

薩摩出身の陸軍軍人であり、桐野利秋、篠原国幹らと同等の立場だった種田政明。

いわば、「薩摩軍閥の巨頭の一人」だったのが、種田政明でした。

名前生年
大山 綱良1825
西郷 隆盛1828
大久保 利通1830
村田 新八1836
篠原 国幹1837
種田 政明1838
桐野 利秋1839
西郷 従道1842
大山 巌1842
別府 晋介1847
明治時代の有力旧薩摩藩士

この時「政府側」だった種田は、「西郷と共に下野しなかった」人物でしたが、当時の西郷の威風は圧倒的でした。

もし、種田が「神風連」で殺害されず、西南戦争の時も続けて熊本鎮台司令長官だったら。

西郷隆盛

明治政府に
尋問の議あり!

種田政明(架空)

西郷先生が、
政府に尋問、だと・・・

種田政明(架空)

西郷先生と
戦うわけには・・・

種田政明(架空)

薩摩人として、
とてもそんなことは、出来ぬ・・・

西南戦争の歴史、そして大日本帝国の歴史は、変わったかもしれません。

乱としては小規模だった「神風連」は、確かに、日本の歴史を大きく変えたのでした。

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