前回は「「家康が宿泊した邸宅」と「接していた」フロイス達の修道院〜大いに憂えた司祭たち・光秀「大成功を収めたので共に歓喜を」〜」の話でした。
王城の護衛者だった光秀:「都から四里」坂本城と「都から十四里」安土城

静謐な都だった京都が、一気に「動乱の渦」に巻き込まれた1582年の本能寺の変。

ルイス・フロイスは、「日本史」において、当時の状況を詳細に記録に残しています。
Frois明智は、信長とその嗣子、およびかの奇襲で
斃れた他の人々を殺害し終えると、



その軍勢を率い、直ちに
午前八時か九時に出立し、



都から四里の地にある彼の城に入るべく
坂本の方向へ立ち去った。
ここでも、フロイスの記述は精緻を極めています。
明智光秀が、織田信長と織田信忠を打ち果たした1582年6月2日の翌日3日。





坂本へ
向かうぞ!
光秀は、午前八時から九時の間に、早々に坂本に向かいました。
そして、都から「四里」の位置にあった坂本。
人間の足で一時間で歩ける距離で、約3.93km(4km)
「一里」は、現代では「一里塚」などの言葉で用いる以外には使わない単位ですが、約4kmです。
「都から」と言っても、「都のどこから」によりますが、とにかく「歩いて4時間」にあった坂本城。
とにかく、明智光秀が長く居城とした坂本城は、極めて良い立地にありました。
つまり、明智光秀は名実ともに「王城・都の護衛者」だったことが分かります。
当時、丹波一国を収めていた明智光秀にとって、主たる城は亀山城でした。
それにも関わらず、坂本城に向かった明智光秀は、明らかに「畿内制圧」を狙っていました。



既述のように、都から安土までは
十四里であるが、同日の十二時には、



早速、この悲報が
かの地に飛んだ。
そして、安土城は「都から十四里の位置」にありました。
安土城:都から十四里
坂本城:都から四里
つまり、安土城は「都からの距離」で言うと、坂本城の「3.5倍の距離」であったことが分かります。
こうした「具体的な距離感」は、戦国当時を知るには、極めて貴重な資料と考えます。
すぐ瀬田の橋修復した明智軍の圧倒的技術力:恐慌状態の安土の街


そして、豪華絢爛たる安土城に「本能寺」が伝わりました。



我らは真実に惹起した事柄を
正確に知らずにいたし、



それに異国人であったので、自分たちはいかにすべきか、
なおさら判りはしなかった。



いな、その日はまだ、それを
正確に知らなかったのである。



なぜならば、都から五里のところに、
信長がしばらく前に作らせたばかりの、



日本随一と言われる瀬田の橋と称する
美しい橋があり、



その下を、かの二十五里の湖水(琵琶湖の水)が
奔流しており、



橋際に監視だけを使命とする指揮官と兵士がいる
砦があったが、指揮官は、



橋際に監視だけを使命とする指揮官と
兵士がいる砦があったが、



指揮官は、信長の訃報に接すると、
明智の軍勢があまり迅速に、安土に向かって通過できぬように、



異常な注意深さを持って
直ちに橋梁を切断せしめたからである。
ここで、ルイス・フロイスは、山岡景隆が瀬田の橋を切断した事実を記録しました。
この事実は、信長公記にも記録されており、上記リンクでご紹介しています。





人質を出し、
明智方に協力せよ。



と申し入れた。
すると、山岡兄弟は、



信長公の御恩は
浅くはない。



ありがたいことと思っているので、
どうにも御協力はできかねる。



と答えて、勢田の橋を焼き落とし、
居城に火をつけ、山中へ退去した。
信長公記では、山岡景隆らの行為を細かく記録しましたが、フロイスはこの点はあっさりしています。



そのために、次の土曜日まで
通行できなかったが、



明智の優秀な技能と配慮により、
直ちに整理復旧された。



瀬の深さと、同所を流れる水足が極めて早いことから、
それは不可能時と見られていたのである。
ここで、「明智に手厳しい」フロイスは、明智光秀及び明智軍の能力の高さを記しました。



瀬田の橋が
切られたか・・・



直ちに我が明智軍が
修復し、橋を渡れるようにするのだ!
現代の建築土木技術ならともかく、重機のない当時、「橋を直ぐに復旧」した明智は流石の能力です。
光秀にしても、秀吉にしても、異様に土木能力が高い武将が多いのが、織田家の特徴です。
それは、信長自身が土木建築能力に際立っていたことが、大きな理由でありました。
さらに、現代においても、当時においても、莫大な費用が係る土木建築工事を易々とこなすためには、織田家の強固な財政基盤が重要でした。



ここ三日間、安土で話されていたことは
数え切れぬほどであった。



明智が来れば、市街全体は城も邸も
何一つ残さずに焼却されるだろうと言われていた。



この大きい悩みの渦中にあって、
司祭たちは、絶えず世間に流布している情報が、



始終恐怖を募らせるものばかりなので、
神学校(セミナリオ)の子どもたちや、



同所にあった主要な祭具とともに、
かの興奮状態から身を救出する方法について、



そこにいた少数のキリシタンたちと協議したが、
一同には、安土の神学校と修道院にいた者は、



同所から三、四里距たり、かの湖の真中にある
一島に退去するのが良いと思われた。
どうやら、フロイスたちは、琵琶湖の「沖ノ島」という島への退避を検討したようです。



すると、それを実行するために、かの島の一盗賊が一船を
持って来て、彼らをその島へ運ばせて欲しいと頼みに来た。
ここで、盗賊が登場し、フロイスたちを救出しようと働きかけて来ました。
フロイスは、盗賊が「頼みに来た」という、いささか妙な書き方をしています。
いずれにしても、安土と京の街は大混乱の恐慌状態であったこと。
その事実を、フロイスは多数の事実とともに、丹念に記録に残しました。

