前回は「一見仲直りした木戸孝允と大久保利通〜伊藤「四ヶ条の大改革」猛推進・自由民権論突撃隊長板垣退助「半分は官選」・伊藤「到底無理」〜」の話でした。
伊藤博文の「法律懐刀」井上毅の登場:一気に設立した元老院と大審院

大久保利通自分は、木戸君の驥尾についてやる
覚悟です。



まあ、維新から色々ありましたが、
皆で改革を進めましょう・・・



早く選挙を行なって、
半分は官選を!



着々と、
進めてゆきましょうぞ。
木戸孝允と板垣退助を政府に復帰させることに成功した、大阪会議。
裏で全てを取り仕切っていたのは、伊藤博文でした。
一、元老院設立
二、大審院設立
三、地方官会議設立
四、内閣分離:輔翼と行政
そして、伊藤博文は、具体的に四ヶ条の大改革を実行する総司令官の立場になりましたが、



私は、人をまとめたり、
色々な調停をするのは得意だが・・・



きちんとした文章を
書くのは、それほど得意ではない・・・





私が文書を
起草しましょう!
ここで、井上毅が登場します。
井上毅は、同じ「井上」ですが、井上馨とは一切無関係であり、熊本藩出身です。
1844年生まれで、小さい頃から極めて優秀であり、大学南校で学び、欧州留学も果たした井上。
いわば、当時の明治政府から見れば、「優れたトップ官僚」の素質を全て満たしていました。
| 名前 | 生年 | 所属 |
| 岩倉 具視 | 1825 | 公家 |
| 西郷 隆盛 | 1827 | 薩摩 |
| 大久保 利通 | 1830 | 薩摩 |
| 木戸 孝允 | 1833 | 長州 |
| 山縣 有朋 | 1838 | 長州 |
| 伊藤 博文(俊輔) | 1841 | 長州 |
| 井上 毅 | 1844 | 熊本(肥後) |
井上毅は、この頃からずっと伊藤の「法律懐刀」として活躍し、伊藤内閣では文部大臣になりました。
さらに、大日本帝国憲法の起草にも加わり、明治の政治に大きな影響を与えた人物でした。



それから、元老院を設け、大審院をこしらえ、
地方官会議を起こし、



四ヶ条の内、三つだけは
行われた。



内閣分離論は、別に異存はなかったが、
当時の情勢がそれを行うまで進まなかった。
地方官会議は、比較的容易だったように思いますが、元老院と大審院を一気に設立した伊藤と井上。
1874年当時、34歳(数え年、以下同)の伊藤、31歳の井上は、若者パワーで一気に突き抜けました。
「内閣分離論」に冷や水浴びせた江華島事件:島津久光と板垣退助辞任


無事に仲直りして、政府に戻ってきた板垣退助は、独自の政治論を強く持っていました。



内閣分離は、
不要ではないか・・・



内閣分離論について、
板垣は最初不承知だったが、



東京に出てから、だんだん内閣分理論を
主張するようになった。
バリバリの軍事指揮官であった板垣退助は、コロコロと意見を変える傾向がありました。
ある意味では、柔軟な思考を持っていた勇将が、やや軽率な点もあった板垣。



島津公も
分離論者であった。





内閣分離、
良いではないか!
隠然たる影響力を持ち続けていた島津久光は、当時、左大臣として、政府に出仕していました。



予は計画者であったから、
無論その支持者であるべきわけだが、



意外の事件が起こって、
分離論を敢行すれば始末の付かぬ情勢になった。



というのは朝鮮の江華島事件というものが
起こって、対外問題の球を告ぐる際に、



というのは朝鮮の江華島事件というものが
起こって、対外問題の球を告ぐる際に、



内閣を分離するのは
よろしくない、ということになった。
「内閣分離」は、政府内で着々と進みましたが、江華島事件が冷や水を浴びせました。



江華島事件など、
関係ない!



さっさと
内閣分離を進めろ!



けれども、島津公や板垣は、この際、ぜひ分離論を
実行しようと言うし、



早く内閣を
分離しましょう!
江華島事件は、当時の大問題でしたが、島津久光と板垣退助は「関係ない」スタンスでした。



大久保・木戸二公は、
予と同様、



どうもこういう事件が起こった時、
分離は出来ぬ。



なにっ!
俺の主張が聞き入れられんのか!



なんだっ!
結局、私の主張は無視、か!



と言ったのが原因して、
ついに破裂して、島津公や板垣は辞職した。
内閣分離論をめぐって、島津久光と板垣退助は辞職してしまいました。
せっかく復帰してばかりの板垣退助でしたが、大久保と板垣は「水と油」でした。



外国と揉めているときに
内閣分離など出来ん!



私も木戸君と
同じ!
ここで、大事なことは「木戸と大久保が同意見であった」ことでした。



そこで、木戸公は病中で引き篭もっていたが、
朝鮮に使節を遣らなければならぬ。



ついては誰を遣ったらよかろう、という
評議になって、



黒田を遣ろう、そうして井上を副使として
付けよう、こういうことに決まると、予は井上に、



今度、朝鮮の使節に黒田を
遣ることになった。



ついては、君が副使となって
行ったらよかろう。





・・・・・
とにかく、江華島事件を収めるために、病気となっていた木戸と大久保は協力体制となりました。
この点では、江華島事件は「木戸と大久保が一致する」良い機会となりました。



最近、
体調が良くないのだ・・・
ただし、この頃、木戸孝允が病気に臥せっていたのが問題でした。
幕末維新の時に、全ての生命エネルギーを使い果たしてしまった木戸孝允。



・・・・・
幕末維新時は、あふれんばかりの猛烈な政治力で、討幕派を牽引し続けた中核が木戸でした。
大久保利通より3歳若いにも関わらず、木戸の体力は見るからに減少していたのでした。
・薩摩:西郷隆盛・大久保利通
・長州:木戸孝允
・公家:岩倉具視
そして、維新の四傑の中で、最も若かった木戸。
若手を引っ張り続けるはずだった木戸は、四傑の中で最も早く自然死(病死)してしまうことになります。

