前回は「「家康の超大戦略」が感じられる家康陣跡〜徳川家より上だった毛利家・「五大老筆頭」家康vs「元・五奉行筆頭」三成・「戦国ど真ん中」徳川家康〜」の話でした。
「文禄・慶長」から「関ヶ原」へ:白村江以来の「鬼門」朝鮮半島

「戦国最大の合戦」であった関ヶ原の戦い。
大坂の陣を、「戦国期の最後」と考えるならば、「戦国最大の合戦」は、大坂の陣となります。

豊臣秀吉この豊臣秀吉が
天下を取ったのだ!



私は「豊臣」という
新たな姓をつくり、関白として君臨する!
これは歴史の考え方にもよりますが、戦国時代は秀吉によって「一度は終了」しました。
ところが、秀吉の政権はあまりに脆弱でありました。



よしっ!
こうなったら、朝鮮へ攻め込む!
挙げ句の果てに、「戦国を終了させた」はずなのに、わざわざ新たな大戦争を引き起こした秀吉。
そして、その大戦争の矛先は海外であり、ある意味で「日本国民の念願」でした。
672年に、白村江の戦いで大打撃を受けて以来、日本にとって「鬼門」であり続けた朝鮮半島。


現代の日本人にとって、「朝鮮半島」は、「日本に近い」くらいの認識です。
その一方で、戦国当時は、米国が存在しない時代であり、欧州も「遠い存在」でした。
その視点で改めて地図を見てみると、確かに「異様に日本に突き出した形状」である朝鮮半島。
見方によっては、確かに「日本」という国家に対して、ズバッと刺さるような形状です。


そして、大船団を整えて、一気に海を渡った「豊臣軍」ならぬ「日本軍」。
緒戦は猛烈な勢いで勝利を続けたものの、朝鮮軍に加えて明軍をも相手にしました。
・文禄の役:1592年〜1593年
・慶長の役:1597年〜1598年
・関ヶ原の合戦:1600年
こうして、改めて、「文禄・慶長」から「関ヶ原」の流れを見ると、強い連続性を感じます。
「超短期大決戦」戦略練り続けた家康:世代交代の大合戦「関ヶ原」


「外征」であったため、一般庶民にとっては、「戦国」より遥かにマシだった「文禄・慶長」。
その一方で、戦国時代の合戦とは、「一桁違う」動員と規模でした。



秀吉め・・・
天下統一したと思ったら、朝鮮か・・・



気持ちは分からんではないが、
いくらなんでも、これは異常だ・・・
当時の家康は、こう考えて、「秀吉の真意」を図りかねたでしょう。
| 名前 | 生年 | 石高 |
| 徳川家康 | 1543 | 255万石 |
| 毛利輝元 | 1553 | 120万石 |
| 上杉景勝 | 1556 | 120万石 |
| 前田利長 | 1562 | 81万石 |
| 宇喜多秀家 | 1572 | 57万石 |
そして、圧倒的存在であった徳川家康は、明らかに「文禄・慶長」とは一線を画しました。
文禄の役開始の1592年の2年前に、「大規模な国替」となった徳川家。
長年勢力を張り、先祖代々の地であった三河・遠江周辺から、一気に関東に移動させられました。



私は、新たに頂戴した
関東をしっかり治めねばなりませんので・・・



とても、とても
外征する余裕はありません。



そうか・・・
徳川殿は、内部を固めてくだされ・・・



こんな無謀なことを
やっていては・・・



豊臣の時代は、
長くは続くまい・・・



そもそも、
後継者が不在ではないか・・・
文禄の役が始まった1592年には、後の豊臣秀頼は生まれていませんでした。
豊臣秀頼が生まれたのは、「文禄」翌年の1593年です。
形式的には「勝利」に終わり、さらに後継者が生まれた秀吉は、一気に勇躍したでしょう。



これで、豊臣の
世は続くのだ!
ここで、「慶長」をやらずに、「文禄」で止めておけば、豊臣の世はもう少し続いたでしょう。



ようやく後継者が
生まれた、か・・・
| 名前 | 生年 |
| 織田信長 | 1534年 |
| 羽柴(豊臣)秀吉 | 1537年 |
| 徳川家康 | 1543年 |
| 石田三成 | 1560年 |
| 福島正則 | 1561年 |
| 加藤清正 | 1562年 |
| 細川忠興 | 1563年 |



右府様(信長)も私も、
子どもは多く、順調に生まれた・・・



秀吉は、確かに
我が国有史以来の幸運な人物だが・・・



後継者にだけは、
恵まれなかった・・・



この点では、少し
同情してやりたくなるほど、だ・・・
秀頼が誕生した時、秀吉は57歳(数え年、以下同)、家康は51歳でした。
すでに「豊臣の次の徳川の時代」に向けて、画策を開始していたであろう家康。
そして、秀吉が1598年に没し、そのわずか2年後に「関ヶ原」となりました。


現在の関ヶ原古戦場は、岐阜から近江の山々に囲まれた平地にあり、当時と状況は大体同じです。
そして、この地に東軍・西軍合わせて、16万名ほどの将兵が集まりました。
まさに双方にとって「乾坤一擲」の戦いであり、若き石田三成が家康に向かいました。
この時、石田三成は41歳、徳川家康は58歳でした。
「戦国時代最後の大合戦」は、それまでの「大合戦」とは何もかもが異なっていました。
「若者が年長者を倒す」ことも多く見受けられた戦国。
下剋上の時代だった戦国でしたが、「大合戦」は比較的同年代が多いです。
この中、「戦国時代最後の大合戦」は、総大将が「およそ20歳」の年齢差がある、異例の状況でした。
ある意味で「世代交代の大合戦」だったのが、「関ヶ原」でした。



本来ならば、
この大合戦は1年以上はかかる・・・



だが、ワシの戦略で
一気に短くするのだ・・・
おそらく、家康は、秀吉存命時から「超短期決戦」を考えていた、と筆者は考えます。
「超短期大決戦」戦略を練りながら、その布石をうち続けた家康。
そして、「関ヶ原」は、誰もが考えもしなかった「1日で終了」となりました。

