「人心恐々たるもの」だった明治七年〜木戸辞職で薩長土肥の首領下野・薩長分裂+ガラガラになった新政府・支那に自ら乗り込んだ大久保〜|伊藤公直話21・エピソード

前回は「大久保との「超不和」と木戸孝允の政治力ダウン〜台湾出兵に怒り心頭・少し静養すべきだった木戸・「巨大な人間パワー」と偉業〜」の話でした。

目次

「人心恐々たるもの」だった明治七年:木戸辞職で薩長土肥の首領下野

新歴史紀行
参議 木戸孝允(国立国会図書館)

幕末維新「最大の政治家」と呼んでも良い木戸孝允。

New Historical Voyage
小松綠「伊藤公直話」(新歴史紀行)

幕末から明治の木戸孝允の動向を、伊藤博文は「伊藤公直話」で大いに語っています。

伊藤博文

台湾事件については、
木戸公は不承知で、

伊藤博文

とうとう辞職して
国に帰られた。

明治六年の政変の翌年、明治七年に惹起した台湾事件。

木戸孝允

もう私は
辞職させてもらう!

激怒した木戸孝允は、明治政府に辞職願を叩きつけて、長州に引っ込んでしまいました。

New Historical Voyage
明治六年の政変で下野した人物たち:左上から時計回りに、西郷隆盛、後藤象二郎、板垣退助、江藤新平(国立国会図書館、Wikipedia)
伊藤博文

その前年秋、西郷・板垣・副島等、
薩摩・土佐・肥前の人々は、

伊藤博文

征韓論の為に、挙って辞職していたので、
人心恐々たるものであった。

出身・派閥主な人物
薩摩西郷隆盛、大久保利通、川路利良、村田新八桐野利秋篠原国幹
長州木戸孝允、山縣有朋、伊藤博文、井上馨
肥前江藤新平副島種臣、大木喬任、大隈重信
土佐板垣退助後藤象二郎、佐々木高行
公家岩倉具視、三条実美
旧幕府勝海舟、榎本武揚、大鳥圭介
明治六年頃の明治政府の主な人物たち

上の表は、明治六年の政変勃発直前の明治維新政府の幹部たちです。

黄色のラインが「明治六年の政変で下野した人物」たちです。

ざっとこれを見るだけでも、明治六年の政変によって「ガラガラになってしまった」明治政府。

特に、「薩摩・西郷、土佐・板垣、肥前・江藤」と、「薩土肥の首領が下野」した点が極めて重要です。

これに加えて、明治七年に木戸が辞職し、「薩長土肥の首領が下野」となりました。

この状況は、まさに「人心恐々たるもの」であり、伊藤博文は正直に告白しています。

薩長分裂+ガラガラになった新政府:支那に自ら乗り込んだ大久保

新歴史紀行
岩倉具視(Wikipedia)

当時の状況は、「鋼鉄の精神」を持つ岩倉具視もビクビクしていたでしょう。

伊藤博文

予も木戸公と進退を共に
しようと言い出したところが、

伊藤博文

岩倉公などは、
大の不承知で、

岩倉具視

伊藤まで辞職すれば、
薩長分裂のありさまに陥るから、

岩倉具視

職に留まって
くれ。

伊藤博文

と言われた。
それで、予は辞職しないで、

伊藤博文

専ら大久保公と
一緒になってやっていたのである。

「木戸孝允の子分・弟または弟子」であり続けた伊藤博文。

当時の政界の状況ならば、伊藤は「木戸と一緒に辞職すべき立場」でした。

それにも関わらず、岩倉にちょっと慰留されただけで政府に留まった伊藤。

筆者は、「伊藤は最初から辞職するつもりはなかった」と推測します。

おそらく、伊藤は岩倉と話す前に、大久保と「政府の今後」を話していたはずです。

その結果、なんとか残りの人物で政府を切り盛りすることを決めた、のでしょう。

出身・派閥主な人物
薩摩大久保利通、川路利良
長州山縣有朋、伊藤博文、井上馨
肥前大木喬任、大隈重信
土佐佐々木高行
公家岩倉具視、三条実美
旧幕府勝海舟、榎本武揚、大鳥圭介
明治七年の明治政府の主な人物たち

とにかく、木戸孝允の辞職によって、明治政府はガラガラになりました。

そのことは、実は「若手台頭の大いなるチャンス」となったのでした。

伊藤博文

そのうち台湾に
兵を出すことになった。

伊藤博文

それで、支那(中国)から、
やかましく言ってきたので、大久保公が、

新歴史紀行
内務卿 大久保利通(国立国会図書館)
大久保利通

自分が使節となって
支那に往ってこよう!

伊藤博文

始末をつけて
来られた。

伊藤博文

それは明治七年の
暮れのことである。

岩倉も大人物ではありましたが、岩倉は「黒幕的存在」でした。

確かに政治家として、大きな力を持ちましたが、実務的能力は低いと考えられる岩倉。

この観点から考えると、当時の政府の大物の中で、実務的政治力を持っていた最大の人物だった大久保。

西郷・木戸・江藤・板垣らが不在となった政府は、「大久保しかいない」状況になりました。

この中、当時「目上」であった支那との交渉をまとめるために、

大久保利通(架空)

ここは、私が支那との
間を収めなければ・・・

大久保利通(架空)

第二の維新が起きて、
政府が転覆してしまう・・・

おそらく、大久保は「背水の陣の思い」で支那に乗り込んだのでしょう。

伊藤博文

それから、

大久保利通

どうしても木戸公を
起こして政府に立たしめなければいかぬ!

伊藤博文

というのが、
大久保公の意見であった。

おそらく、大久保は、木戸が辞職した当初は、

大久保利通(架空)

やむを得ん・・・
木戸さんとは長く不仲であったし・・・

大久保利通(架空)

これからは、私を中心に
長州は伊藤や山縣、

大久保利通(架空)

薩摩は川路を軸に
政府を切り盛りしてゆこう。

大久保利通(架空)

肥前は大隈が
いるから大丈夫だろう。

伊藤博文(架空)

承知しました。
我らが支えましょう。

このような感じで、「残りの人物で、なんとか政府を運営する」ことを考えたであろう大久保。

とにかく、幕末の1863年頃から、「木戸とは色々ありすぎた」大久保。

木戸孝允も大久保利通も日記を残していますが、「日記に書かなかった」ことがあるはずです。

あるいは「日記に書けなかったこと」も多数あるはずです。

「木戸と大久保しか知らない」こともあったはずです。

この中、岩倉使節団前後から「不和がハッキリ」していた木戸と大久保。

大久保利通

木戸がいなければ、
どうにもならぬ・・・

しかし、やはり「木戸がいなければ」と大久保は考えることになります。

New Historical Voyage

この記事が気に入ったら
フォローしてね!

目次